冊府元亀について

会員番号2054 投稿日:2024/06/23 23:28

会員2054です。まず何度も回答のお付き合いをいただいている伊藤氏に御礼を申し上げます。伊藤氏の見解の全体像は、私の理解が及ばないため、疑問点についての言及は控えようと思います。また、学問道場の諸兄にも参考にならないと思いますので、これで(しばらく)最後の投稿にします。

なお、伊藤氏からご質問のあった「羅紀」は新羅本紀のことと思います。また、冊府元亀については、以下の記述が参考になると思いますので、ちょっと長いですが引用を記します。

小林恵子・井沢元彦対談本 『記紀』史学への挑戦状P203~205

(引用はじめ)

『晉書』にみえる東倭の国

小林 はい。それで『晉書』を見ますと、宣帝というのは司馬仲達のことなんですけど、その宣帝紀に正始元年、つまり240年に東倭が朝貢したと出ているんです。東の倭、これは初耳だと思うんですけど。

井沢 そうですね。

小林 この東倭というのが丹後から大和にかけての倭王の国なんです。

井沢 つまり、倭王、倭国は2つあってというか、倭人の国が幾つかあって――

小林 幾つかあって――

井沢 その中の1つということですね。

小林 そういうわけですね。特に東ですから本州の国ですね。東倭が重訳を連れてきたとあります。重訳っていうのは何人もの通訳を連れてきたという意味で、つまり、本州の中部にあった言葉と北九州にあった倭国語とは言葉が違うんですね。ですから東の国の言葉を一度西の方の倭国の言葉に訳して、それから中国語に訳すので何人もの重訳を連れてきたということでしょう。

井沢 今でも重訳といいますものね。

小林 重訳っていいますね。それから高句麗の東川王ですね、東に移った王は、毌丘倹(かんきゅうけん)という魏将に追われて列島に亡命してくるわけですね。北九州に来て、それで邪馬台国を滅ぼして、台与を押し立てて、つまり東遷ですよね、そういう説をとなえている人もいますけどね、東遷、北九州から東遷したというのは他にも何人もいます。

井沢 私もそうなんですけど、はい。

小林 それでもともと高句麗の東川王は東倭の国と連合していたわけですから、そこで台与という卑弥呼の一族の祭儀上の女王を押し立てて大和地方に移って、泰始元年、265年というのは、これは晉が建国した年なんですけれども、『冊府元亀』に倭の女王が朝貢したとあります。この女王が台与ですよね。だから、もうこのときは既に大和地方に移っている。『晉書』の方には266年11月になっていますけれども、倭人が来たとあります。

井沢 『冊府元亀』、これはどういう本ですか。

小林 『冊府元亀』というのは11世紀始めに書かれた本ですけれども、ものすごい量の本ですね。

井沢 それはだれが、どういう目的で書いた本なんですか。

小林 宋の時代です。宋の時代の王欽若(おうきんじゃく)等の編纂による書ですね。もうすべて森羅万象にわたっての中国史をかいてあるわけですよ。

井沢 じゃあもう百科全書みたいな。

小林 そうそう。そこの朝貢という場面です。もう何しろ当時の中国からみるとこちらは野蛮国ですから、朝貢しか載らないんです。この朝貢というところに――

井沢 あ、朝貢史の中にこれがあるわけですか。

小林 これが入っているわけです。『冊府元亀』を全部読む人ってあまりいないんですけど。

井沢 いないでしょうね。

小林 いないんです。

(引用終わり)

会員2054です。この対談では、240年前後当時、日本列島内には複数の国があり、そのなかに「邪馬台国」と「東倭」があっていずれも魏に朝貢していることが提示されています。また、晉建国直後の265年に朝貢していることが『冊府元亀』に示されている、とあります。

高校教科書がどうなのかはしりませんが、『冊府元亀』はあまり読まれていないとのこと。マイナーな扱いにしてよい史料ではないように思います。

最後に、伊藤氏に一言。精力的な投稿が続いておりますが、来月から長期入院されるとのこと。お体をお大事にお過ごしください。