伊藤睦月氏に答える、に答える(続々)

伊藤 投稿日:2024/06/13 10:34

伊藤睦月(2145)です。それでは、表題の残りの部分にコメントします。

(引用はじめ)チョウネン(私のスキル不足で活字が拾えないので、カタカナ表記にします。以下同じ悪しからず)は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでもわかることだ。

(引用終わり)

伊藤:私も普通だったら、謁見できないと思います。しかし「誰にでもわかることだ」の理由が「一学僧だったから」では、答えにならない。幼稚園児でも、もっと気の利いた答えをいうだろう。「誰にでもわかることだ」は副島隆彦の学問道場ではNGワードだ。思考放棄です。もっと考えましょうよ。重たい掲示板は副島隆彦先生が管理人。会員もそうですが、軽い気持ちでなくて「重たい決意」で語る先生のオピニオンを明らかにする場、と理解しております。だから未熟な者(私も含め)は、その「補集合」であるふじむら掲示板あたりが、相応しい。

で、守谷さん、「誰にもわかることだ」という理由を簡潔に述べてください、と問いかけてもいつ返ってくるか、わからないので、伊藤案を示します。

伊藤案:本来3位(紫衣)以上のか僧侶しか拝謁できないのに、6位(緑位)の僧侶が拝謁できたから。

守谷さんの書かれているとおり、確かにこれは尋常なことではありません。守谷さんはその理由を尋常でない黄金を運んで行ったのだ」と断定していますが、論理飛躍しすぎ。宋史外国七日本国(1345年成立)では、黄金献上の記事がないからです。守谷さんが言われるほどの量の黄金(実は量不明:あとで試算をしますけど。その前に守谷さんに答えてほしい。「銅器十余事」詰め込まれた黄金の量。「とにかくたくさん。いっぱい」は幼稚園児の回答です)ならば、途中で、役人がピンハネできない量だと思うので、かならず記録に残るはず。なにせ今までの慣例を破って、北宋太宗皇帝が拝謁を許すくらいですから。黄金献上について、皇帝から何かコメントあったと考える方が普通です。

また、チョウネンの帰国後、弟子を返礼に差し向けますが、(そのときは、上表文、すなわちギフトカタログと手土産を提出しただけで皇帝との拝謁は実現しなかったようです。)そのとき、なぜ黄金を献上しなかったのか。当時チョウネンは3位(紫衣)の東大寺別当でしたが、弟子はそうではなかったからという、今でも役所やサラリーマン社会ではよくある、つまらない理由で拝謁できなかったと思いますが、そのとき黄金を献上していれば、例外的に会えたかもしれないのに。

 それに弟子が献上した手土産を守谷さんは「空前絶後」と言っています。確かに当時日本特産の貴重品ばかりですが、裕福な貴族ならポケットマネーで用意できるような。品と量(各一つずつとかせこい量です)

それよりも仏典なんかが大変喜ばれているようです。

おそらくは、日本に連れ帰ってくれた宋商人にまとまった個人の金を渡して用意させたのでしょう。東大寺や朝廷から払ったのなら、必ず記録が残ってます。上表文にギフトカタログがあるので、ピンハネはできなかったと思いますが、安く仕入れて、差額を懐に入れることぐらいはしたでしょう。現在でもしばしばみられる光景です。以前紹介した、高校レベルのテキストでは、日本からの輸出品として、上表文にあるような品物はリストアップされてますが、黄金はあげられてません。金銀の流出が話題になるのは、これから500年後の戦国後期か750年後の幕末です。意外と金の産出量は少なかったのではないか。少なくとも教科書レベルでは、輸出できるほどの量でなかったと理解されているようです。奥州黄金伝説なんてビッグマウスの話盛りすぎでは。実際、守谷さんが重要視されてる旧唐書東夷日本、でも、

(引用開始)

その人、(唐の)朝(廷)に入る者、多くは自ら大を誇り、実をもって対えず。故に中国はこれを(どこまで真なりやと)疑う。

(引用終わり)

と、書かれているくらいですから。日本人=ほら吹き説は少なくとも当時の中国世界では常識だったようです。

この項に関しては、まだまだ書きたりないので、また追加投稿します。

また、東方見聞録関連は、さきほど、東方見聞録(東洋文庫)をアマゾンで注文しましたので、その内容を精査してから、後日投稿します。

(予告)守谷論文の検証終了後は、岸義文さんの投稿を検証します。

(以上、伊藤睦月(2145)筆)