伊藤睦月さんへ

かたせ2号 投稿日:2024/11/24 10:33

伊藤睦月さん

かたせ2号です。
どうもです。
お相手していただくとありがたいです。
私は50歳台後半の人間なので、こうやって書き連ねると、ただの
「じじい同士が自分の昔話(読書体験)に花を咲かせるだけ」(伊藤さん、失礼!)の展開になりますが、
それほどレベルの低い話が進んでいるわけでもないので、このままの感じで行きます。
まあ、いいか、ここは網走番外地「ふじむら掲示板」だし。

(1) カール・ポパーのご紹介ありがとうございます。カール・ポパーが、プラトンを非難しているのは知りませんでした。分析哲学と呼ばれる領域での論客で、「反証主義」を唱えているとは、ワタシもお勉強して、そこまでは知っています。そして分析哲学が主に「哲学と科学との境界線を考察する」、20世紀前半に勃興した比較的新しい活動であることも。ただし、ワタシは読めません。
自分が進むべき生き方を探求する上では学び取る必要が薄く、かつ、日本人の生活実感からかけ離れた思想領域には、時間をかけて勉強する気にはならないので。
分析哲学もこれに該当します。

(2) 佐々木毅さんは、副島隆彦先生が著書をご紹介されていたことから、名前は当然存じています。一冊、ワタシも本を持っています。「政治の精神」(岩波新書)。
途中まで読んでいてて、いいことを書いているとは思うのですが、この本を読んだ日本人が、自分の政治に行動を変える可能性があるのかを想像して、読めなくなってしまうのです。
書かれた内容と日本人の政治行動とのあまりの違いに、頭が勝手に絶望してしまうので。
日本人の政治行動とはなにか?
有名な経営コンサルタントの大前研一さんが、東京都知事選に立候補して落選したときのことを著書「大前研一敗戦記」(1995年11月刊)には、
街頭演説の最後に、奥さん(米国人)がフルートを弾いて終えると、「あのフルート、よかったよねえ」とそこばかり褒めてくる、といったエピソードがあり、それが強く印象に残っています。日本人の政治選択ってそんなものですから。日本国民の大部分が究極まで窮乏するのが先か、日本人の政治選択の様式が変わるの先か、これからどうなるのでしょうか?

(3) ソクラテスとプラトンの思想の違いは、「無知の知」の考えが、本来のソクラテスの思想で、「イデア説」「哲人国家説」がプラトンの思想だと、大きくは考えておけば、支障はないと思います。
また、今日のぼやき「ヨーロッパの王と大思想家たち本の後に続く問題(第3回・全3回) 2024年3月25日」にあった、副島隆彦先生記載の一文、
「西暦1100年代、1200年代は同じスコラ学者の中の戦いがすごかったんです。」
には目を見開かされた思いです。
副島先生ご記載の通り、バチカンの闇の奥には、プラトンの「イデア説」が蟠踞(「ばんきょ」。根をはってわだかまること。がんばって動かないこと)しています。
ですから、イエズス会というのは、「子羊たちに見せる顔」としては、たしかにイエス・キリストを崇拝していますが、本当はそうではなくて、本当はプラトンの「イデア説」の美しさに魅了されて、魂を売ってしまったひとたちなんだろうと思います。その醜悪な姿を、ドストエフスキーが活写し「カラマーゾフの兄弟」の中で告発したのでしょう、キリストの奇跡を否定しキリストを火あぶりにしようとする「大審問官」として。
そんなプラトンの愛弟子が「マルクス」と「ポルポト」。
これでいい世の中ができるわけがないでしょう。
以上、ワタシの勝手な極論ですので、聞き流してください。

バチカンの「署名の間」に、絵画「アテネの学堂」が掲げられているのが、世界の真実。

「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」

(補足)
セートクアートランダムというブログから引用します。
https://seitokubi.exblog.jp/17627259/
(引用開始)
「署名の間」は神学、哲学、詩学、法学(正義)という概念を、壁画と、天井に描かれた場面や擬人像と対応させ、図式化した構成になっています。壁画《聖体の論議》と天井画《原罪》は神学、壁画《アテネの学堂》と天井画《天体の起動》は哲学、壁画《パルナッソス》と天井画《アポロンとマルシュアス》は詩学、壁画《正義の壁》と天井画《ソロモンの審判》は法学(正義)という対応関係です。
これはキリスト教と古代の新プラトン主義が結びつき、さらにキリスト教を超えたその時代の思想を部屋全体で体現しているという、壮大な構成です。ルネサンスの理想としている空間で、「署名の間」はまさにルネサンスの最高傑作と呼べるもので、当時も大評判を呼びました。
(引用終わり)

かたせ2号拝