伊藤さんに唱和します。
伊藤睦月さんへ。
かたせ2号です。
ワタシも同じく、次の言葉に感銘を受けた人間のひとりでした。
副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章(講談社アルファ文庫1999年、初出『現代アメリカ政治思想の大研究 世界覇権国を動かす政治家と知識人たち』1995年)から。
(引用開始)
「議論する」とはどういうことかをわかっていないのだ。
議論とは、相手を言い負かすことでなくて、自分の弱点を徹底的に考える、といことである。
(引用終わり。)
かたせ2号です。
ワタシは、上の言葉に出会ったせいで、自分自身を甘やかすこともできなくなり、かなりしんどい思いをしましたが、現在では、この訓練によって、分析力は自分の満足のいくレベルまでつけることができたなと感じている次第です。
なお、上記の内容は、ワタシの依って立つ人生観が(リンカーンの)「With malice toward none」であることにより、以下のワタシの考察内容と接合します。
自分の気にくわない相手なら、傷つけてもいい。そういう心得違いをした人間が、世の中にはたくさんいます。しかし、だからと言って、彼らの言っていることが百パーセント間違っているわけでもありません。彼らの言っている言葉の中にも酌(く)むべき言葉はあるはずです。彼らは、立っている場所が、考え方の立脚点が違っているかも知れませんが、しかし彼らの言う意見の中にも一片の真理はあるのです。それはそれで反省材料として、受け止めなければならないはずです。こうしたものだと思います。
ワタシはこういう心がけで生きてきました。
まあ、これは、これで、いいのですが、
しかし、副島先生の説く政治的枠組みに従って世界を読む解くうち、
世界を覆うような強烈な「悪意」の存在に、うすうす感づいていくにつれて、
最近になって思い至ったことがあります。
「100%の間違いを言える人など世の中にはいない」、
これが、世の中の真実であるからこそ、
世界に降りる「闇の帳(とばり)」は、ますます深く、かつ、濃くもなってしまうのです。
そんな中に、「本来悪なし」(谷口雅春)なんて到底いえなくなるような、巨大な「悪意」が、伏在してきたからです。
難しいところです。
そんなことを最近になって思い至り、副島隆彦先生の思想に接してから怒涛のごとくに過ぎ去った、直近30年近くのワタシの人生を、呆然としながら、振り返っているところです。
かたせ2号拝