予言はその時期を当てるのは至難である(出口王仁三郎の例)
予言と霊能力 – 王仁三郎ドット・ジェイピー(オニド)のサイトから引用する。
https://www.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=16
(一部引用開始)
日米戦の予言
王仁三郎の名前を一躍有名にしたのは未来予言である。
特に日米間の戦争で起きるという予言が的中したことは、あの朝日新聞も脱帽して(大戦後のことだが)報道したほどだ。
「火の雨が降る」──これは米軍のB29爆撃機が投下して日本全国を焦土と化した焼夷弾のことだろう。焼夷弾は高空で投下されると燃えながら落ちてくる。それが文字通り「火の雨」に見えるのだ。果たして明治時代に日本に「火の雨」が降るなんて想像した人がどれほどいただろうか?
「火の雨が降る」というのは、もともと出口ナオ(直)の筆先に現われた予言である。
出口ナオは明治25年(1892年)旧正月に「艮の金神」(うしとらのこんじん)という神が懸かり、「三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世になりたぞよ」という雄健びを叫びだした。これが「大本」(おおもと)が開教したきっかけである。場所は京都府の北の方「綾部」(あやべ)という町だ。肌着メーカーのグンゼが発祥した地として知られている。
ナオは半紙に筆で、艮の金神のメッセージ(神示)を自動書記で書き続け、大正7年(1918年)に昇天するまでの間に何と10万枚も書いた。それを「筆先」と呼ぶ。
筆先は、基本的に平仮名と漢数字で書かれているため、色々な意味の解釈ができてしまう。そのため解釈する権限は王仁三郎にのみ与えられた。
(中略)
王仁三郎は筆先を解釈して漢字をあてはめ、誰でも読めるようにして発表した。それを「大本神諭」(おおもとしんゆ)と呼ぶ。筆先はナオの手を使って艮の金神(国祖・国常立尊)が書いたものだが、凡人が読んでも意味が全くわからない。王仁三郎の霊能力があってこそ、正しく読み解けたのである。そういう意味では、大本神諭は事実上、王仁三郎が書いたものだと言ってもよい。
大本神諭が発表されると世間に大きな衝撃を与えた。それは「この世の立替え立直しが間もなく起きる」という、世界の終末を告げる予言だったからだ。
<b>当時の大本は大正10年(1921年)にこの世の大峠(終末)が起きるという「大正十年立替説」を大々的に宣伝して信者やシンパを集めて行った。</b>初期の大本は終末予言の宗教だったのだ。
王仁三郎の手になる予言には、たとえば「大本神歌」や「いろは歌」がある。
……東雲(しののめ)の空に輝く天津日(あまつひ)の、豊栄(とよさか)昇る神の国、四方(よも)にめぐらす和田の原、外国軍(とつくにいくさ)の攻め難き、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足(ちたる)の国と称えしは、昔の夢となりにけり。今の世界の国々は、御国(みくに)に勝りて軍器(つわもの)を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備え足らわし間配(まくば)りつ、やがては降らす雨利加(あめりか)の、数より多き迦具槌(かぐつち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬(うきせ)を渡る国民(くにたみ)の、行く末深く憐みて……
〔大本神歌 大正6年12月1日 『神霊界』大正7年2月1日号〕
「迦具槌」(迦具土)というのは日本神話に登場する火の神である。つまりアメリカが爆弾を投下するという意味に受け取れる。
……おちこちの寺の金仏(かなぶつ)、金道具(かな)、釣鐘(つりがね)までも鋳潰(いつぶ)して、御国(みくに)を守る海陸(うみくが)の、軍(いくさ)の備えに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理(たぐり)になります金山(かなやま)の、彦の命(みこと)の御代(みよ)となり、下国民(しもくにたみ)の持ち物も、金気(かなけ)の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代えでも足らぬまで、迫り来るこそ歎(うた)てけれ。
くに挙(こぞ)り、上は五十路の老人(おひと)より、下は三五(さんご)の若者が、男女(おとこおみな)の別ちなく、坊主も耶蘇も囚人(めしうど)も、戦争(いくさ)の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず……
〔いろは神歌 大正6年11月3日 『神霊界』大正6年12月1日号〕
これは第二次大戦中に行われた金属の供出(実際にお寺の釣鐘なども兵器を造るため鋳つぶされた)や、徴兵や徴用で老若男女問わず総動員された大戦末期(男子の9割以上が徴兵された)の予言であろう。
そのほか、王仁三郎の予言には枚挙にいとまがない。
(一部引用終わり)
かたせ2号です。1944年~45年(昭和19年~20年)に実現したアメリカ軍による日本空襲の予言の時期を、出口王仁三郎は1921年(大正10年)に読み過(あやま)っている。
この1921年には、結局終末予言が実現せず、同時に原敬内閣によって第一次大本弾圧が行われ、これらへの失望を機に、浅野和三郎や谷口正治(雅春)ら、有力な弟子が離れていった。
予言はその時期を当てるのが難しい、というのがこの文章の結論である。