世界認識の方法(第三版)

藤村 甲子園 投稿日:2012/01/27 08:47

1.

私が小学校低学年(注1)の、家族みんなが寝静まった深夜の刻、布団の中で壁を見詰めながらこんなことを考えた。

(注1)具体的には1970年4月(6歳)から1972年6月(8歳)の間のことである。

もちろんただの鼻タレ小僧だった私に、以下のように筋道立った思考ができよう筈もない。後年になって少々カジッた哲学用語で、子供だった頃の一度切りの(そして、決して忘れることができなかった)思いつきを交通整理してまとめ直した、いわば「後出しジャンケン」であることをあらかじめお断りしておく。

2.

世界とは私が認識したものの全てだ。

戦争が泥沼化していたベトナム・カンボジアでは、子供でも無差別に虐殺されかねない事を私は知っていたし、アメリカ合衆国の子供がけっこうな消費生活を享受している事も知っていた。
また、日本は高度成長期の今でこそ物のあふれる豊かな国だが、敗戦直後は餓死者も出るような食うや食わずの状態だった事も知っていた。(ここらへん、妙にませているのがテレビっ子のテレビっ子たる所以なのである。)

その一方で、私が認識できなかったものは世界の外にあるようなものだ。たとえ目の前に置いてある物でも、私がそれを認識できなかったら存在しないも同然だ。

また、私が死んだ後の世界がどうなるかも私の知り得ないことだ。世界とはつまり、私が生きてる内がハナなのだ。

これが偏った考えであることは承知しているが、その時の私には、ことほど左様に世界とは主観的なもの、いわばテレビの映像の如きものに過ぎないのではなかろうかと思えたのである。(昼間、実際に体を動かしている時、または他者と交通している時だったら、こんなことは思いつきもしなかったろう。)

とにかくその時、私はこう思った。
私は私の主観に仕えている。私の主観は私に対して万能である。それならば、かくも至高の存在である私の主観が、今この空間、今この時間、そして今この肉体に拘束され、限定されているのはなぜなのか。

なぜ私はベトナムでもアメリカ合衆国でもない、日本という特定の空間に存在しているのか。なぜ敗戦直後ではなく、高度成長期の今という時間に存在しているのか。私が山田太郎や鈴木一郎とは置き換え不可能で、藤村甲子園以外の者であり得ない理由とは一体何なのか。

もしかしたら、私の主観、私の存在は別に至高のものではなく、ただのアクシデントの結果として存在しているのかも知れない。そう考えないとツジツマが合わないではないか。

3.

それで薄汚いガキだった私がその後どうしたかと言うと、実に子供らしい天真爛漫さで、自分の考えをまだ拙い言い回しのまま周囲の親友にぶつけてみた。

もちろん信頼していた友すべてに、変な顔をされただけのことである。
「大人は判ってくれない」どころの話ではない。同じ子供である親友たちですら、私の話を判ってくれなかったのである。

4.

今にして思えば、事の真相は実に単純だった。私はこう言えば良かったのだ。
「どうしてこんな粗暴で、相手の痛みが全く分からないエゴイストで、なおかつ外っ面ばかり良い偽善者で、そのくせ自分たちのことを善人か義人と(ヘタすりゃ聖人君子とでも)信じて疑わない、まるでマキャベリストの鑑みたいな人間が私の両親なんだ。
こんな家、出て行ってやる。」

実際、家出は何度も検討した。だが、私はそれに踏み切れなかった。
家出をすれば寒かろう。ひもじかろう。追っ手に捕まって家に連れ戻されたら、今よりひどい暴力が待ち構えていることは判りきっている。それならこの家でナニ食わぬ顔をし続けていた方がまだましだ。
私は子供のくせに、妙なところで分別臭い奴だったのである。

さらに私は、こんなことを考えるようになった。
そもそも親の前で、顔の表情や身振り、言葉の端々に些かでも反抗のそぶりを見せたりするから殴る蹴るの目に遭うのであって、ポーカーフェイスと完全黙秘を貫き通し(注2)、心の中でだけ父母に復讐し続けるなら父母といえども手の出しようはあるまい。
心だけは私のものだ。(注3)

(注2)但し、ウソは禁物である。コルネイユいわく「うそを吐いたとたんに、良い記憶力が必要となる」とは本当のことだと、何度か痛い目を見た後で私は思い知った。

(注3)これを「思想・良心の自由」と言うのだと、後に憲法の講義で習った。言いたいことを忌憚なく口にできる、いわゆる「表現の自由」とはまた別物である。

それに、痛い目に遭わされて私が泣けば、両親は「なんだ、これ位のことで泣くな」と殴り蹴った当人が私のことを嘲笑した。殴られるのはやむを得ないが、殴られた上に侮辱までされるのは子供心にも耐え難かった。(両親は私のことをフォローした積もりだったのかもしれないが、私はそうは受け取らなかった。)
私は決めた。痛ければ涙は自然に出る。だが、泣き声は上げまい。親に涙を見られるのは屈辱だから、隠れて泣こう。それと、涙は流れるに任せよう。無理して我慢すると眼が充血して赤くなるからだ。それ位の事は実に造作もないことだ。

幼い私は、こうやって一歩また一歩と精神的に武装し、親の目の届かない「地下水道」に潜ることを覚えて行った。(注4)

(注4)私がニコロ・マキアヴェッリ(1469~1527)の著作に触れてその虜となるのはそれから約25年後の1996年(私が33歳)前後のことである。
マキアヴェッリは決してマキャベリストではない。祖国イタリアの自由と独立のため、生涯かけて戦い抜いた「最後の中世人」にして「最初の近代的共和主義者」とでも言うべき人だったのである。

「好かれて死ぬのと、嫌われて生きるのと、どちらか一方を選ぶなら、生きる方を選ぶ。」(イスラエルの諺)

意図せずして私は上記の道を選んだ。なるほど「藤村はオタクだ」、「クラい」、「執念深い」、「陰険でムカつく」とカゲ口を叩かれる筈である。

私はタイム・マシンで過去に遡り、子供の私に教えてやりたい。
「もしも家出する気になったら、児童相談所か法務局人権相談係に駆け込め。家に連れ戻されそうになったらトイレに立て籠もり、着ているものを全部便器の水に浸し、全裸になってでも抵抗しろ。死ぬ気でやれば出来るだろう」と。

5.

私の両親は今でも「長男のおまえが私たちのことを理解してくれないのは納得できない」などと言っている。

私は分かり合えなくても良いと思っている。そういう親子関係なのだから仕方ないだろう。両親のように「ヨソの家にはあるものが、なぜウチにはないんだ」などと駄々をこねても始まらない。

もう済んだことだ、何もかも。It is no use crying over spilt milk.(こぼれたミルクを嘆いても仕方がない)
両親に対しては「これからどうするか」以外に、私にはいかなる関心もない。今後も私の両親が(1)私の領分を勝手に侵犯せず、(2)礼儀と社会常識を尊重してくれるなら、私は両親のことを引き受ける覚悟である。

6.

さてその後、高校生になった私が性懲りもなく我が「世界認識論」を開陳した際、ある親友は私の顔を正面から見据えてこう言った。
「もしかしておまえ、自分の親に不満でもあるんじゃないのか。」
私は「いや、そんな積もりで言ったんじゃない」と打ち消してしまったが、実はこれこそが問題の急所だったのである。

私は自分の本当の姿から目を逸らしていた。
この点を、妹たちや複数の親友から何度も警告されてもいた、「おまえは肝心な時には、そうやってすぐ逃げる」と。
先に述べた「世界認識」云々の屁理屈は、子供なりに巧妙に仕組んだ私のアリバイだったのである。
すなわち、「何もかも私の気のせいだと考えれば、このひどい生活にもなんとか耐えて行けるではないか」というのが、私の真の動機だったのである。

つまり私の精神構造は、早ければ6歳、遅くとも8歳までには煮詰まっていて身動き取れなくなっていたのだ。

こう言った独りよがりな人間は、第三者から見れば当然のことながら、
「自分のことにしか興味がない奴」、
「人の話を一応聞くフリはするが、最後は自分のしたいようにしてしまう奴」、
「相手とよく話し合った上で折り合う、相互了解に達するということができない奴」、
「自分の殻に閉じ籠っている奴」、
「自分の影に脅えている奴」、
「何を考えているのかさっぱり分からない奴」と映る。

実は、親友、同級生、教師、会社の同僚、上司、そして初対面の人間(注5)からさえ、私は何度も忠告(注6)されていた、「いつまでも固い殻の中に閉じ籠るな。他人に対して身構えるな。まず、肩の力を抜け」と。
その頃はまだ、私は自分が何を言われたのかさえ理解できなかったのである。

(注5)上に列挙した人々の中には、私に好意を持っている人もいたし、持っていない人もいた。「おまえのことが嫌いだ」と、私に面と向かって言った人もいた。
このように立場の如何に拘らず口にすることは誰しも同じなのだから、頂いたご忠告は客観的に見て妥当なものと言わざるを得まいと、私は思わないでもなかった。

(注6)一口に忠告と言っても「ためになる忠告」と「ためにならない忠告」の2種類がある。
(1)「アンタのことをみんなが***だって言ってたよ」だの「まあ、私も人の事は言えないんだけどね」といったフレーズを含む「ご忠告」には聞く耳持つ必要はない。
こういう没主体的で無責任な言い回しを好む人間は、えてして面倒ごと・厄介ごとからは逃げ回り、自分の告げ口で相手が苦しむのを見て楽しんでいるだけのことが多いからである。最悪の場合、話の内容が100%デマ、100%誹謗中傷である可能性もあると心得ておいた方が良い。
(2)これに対し、「これは私の見解なんだか」とか「君のためを思って言うんだから、心の片隅にでも留めておいてほしいんだが」と言ったフレーズが出てきた場合、相手はハラを据えてものを言っている。忠告の内容がどうしても承服し難いものだったとしても、その一言々々を真摯に受け止めて「私の何がイケないの?」と反省し、具体的な是正処置を講じるべきである。その是正処置がまるで見当違いなものだったとしても、周囲の人間は「あいつはあいつなりに反省してるんだな」と認めてはくれるだろう。
反対に、あなたが忠告された時だけ反省したようなフリをし、その後何の変化も見られなかったら、あなたは周囲から見放されるだろう。
(3)もちろん、自分一人がイノセントな「唯我独尊」の世界に閉じこもるというのも、それはそれで心地よいものだ。「気がついた時には一人ぼっちになっていた」でも別に構わないという方はどうぞご勝手に。ただし、次のような覚悟だけはしておいた方が良いと思います。小林秀雄いわく、「世捨て人とは世を捨てた人のことではない。世に捨てられた人のことである。」

7.

なお、もしも私の両親がこの文章を読んだらきっとこう言うだろう。
「この文章はフェアじゃない。お前が親からお蔭を被った部分はチャッカリ無視しているではないか。家族旅行や買い物にも連れて行ったし、本は買いたい放題に買わせてやったし、情操教育や進学にもたっぷり金をかけてやったじゃないか」と。

その通りである。この文章は私の生い立ちのダーク・サイドを抉り出そうとしたものだ。だから「そういう一面ばかりじゃなかったろう」と抗弁したところで、それでプラス・マイナス帳消しになるというものでもないのである。
毒なら薬で解毒できる。だが、一旦体内に蓄積された重金属は、そのまま死ぬまで私の中にある。

そう言えば、両親に怒鳴られたり小突かれたりしながら、つきっきりでピアノの練習や幾何学のドリルをやった事もあった。今思えばどちらも重要な基礎教養だったのだが、私は結局これらのものを見るのも嫌になってしまった。こういう押しつけがましいやり方が私の両親なりの愛情表現だったのかと思うと心底ウンザリする。梶原一騎『巨人の星』だの小池一夫『子連れ狼』だのが理想的な子弟教育の見本とされていた時代の話である。

8.

長じて妙な本ばかり読むようになった私は、当然ながら妙な知恵がついた。

中学1年の1976年に、旧ソビエト連邦から国外追放された反体制作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの「収容所群島」を、未だよく分からないながらも、むさぼるように読み耽った。
旧ソ連のように自由のない息苦しい国であっても、その気になりさえすればソルジェニーツィンのように精神的な独立と人間としての尊厳を守り通すことができるのだと私は知った。(注7)

(注7)かくてソルジェニーツィンは少年だった私のヒーローの一人となった。
ところが後日、ナターリヤ・レシェトフスカヤ『私のソルジェニーツィン 前夫人の回想記』(サイマル出版会、1974年)を読んだところ、実はこのオッサン、全くどうしようもない偏屈者だったと知った。旧ソ連がどうしたこうした以前に、そもそも世の中と上手く折り合って生きて行くことができないタイプの人間だったのである。
今日私は、ソルジェニーツィンのようになりたいとは別に思わない。

そして、忘れもしない大学2年の1983年、とうとう私はバカなことを思いついた。

すなわち、「世界が私にとって不都合なら、少々乱暴なことをしてでも世界の方を変えてやれば済むことではないか」と。

かくて我が「或阿呆の一生」エピソード2が開幕の運びとなった。
その話はいずれまた改めて。
(以 上)