下條さんの誠実な対応にまず感謝します。こういう反応をいただいたのは今までなかったので、少々うるっと来ています。
伊藤睦月です。只今、2024年11月14日8:15です。まず、下條様へ。表題にも書きましたが、誠実なご対応ありがとうございます。私の投稿に対しては、会員、非会員とわず、(20年前は非会員でも投稿できました)今まで、反発,無視、罵詈雑言、逆切れという対応ばかりだったので、下條様のファクトに基づく冷静な対応にはいささかとまどっているくらいです。それでも、副島先生がこれまで経験されてたであろう、(と想像していますが)仕打ちに比べれば、はるかにましでしょうが。なにはともあれ、今後ともよろしくお願いいたします。
さて、下條様がご指摘されている、大山誠一とその仲間の学者たち、彼らについては、私は態度を決めかねています。
(引用開始)ちなみに、私は副島先生と同じく、聖徳太子=蘇我入鹿+蘇我馬子説で、アマタリシヒコ=蘇我馬子だと思います。(引用終わり)
伊藤睦月です。実は、大山誠一もアマタシリヒコ=蘇我馬子説です
(引用はじめ)
聖徳太子が架空の人物であったとなると、直接の影響を被るのが推古である。・・・疑問なのは推古だけではない。用明も崇峻も、大王として疑問がある。・・・私はこの3人は大王でなかったと思う。そのことを証明するのは難しいが、基本的な考えかたは示しておきたい。・・・大王という地位にこだわらなければ、この時代の最大の権力者は明白である。もちろん、蘇我馬子である。では、彼は、大王だったのではないか。それは、飛鳥における彼の権力の質にかかわる問題であろう。(引用終わり:大山誠一『日本書紀』の構想、『聖徳太子の真実』2014年平凡社ライブラリー初出1994年ごろ)
伊藤睦月です。「ごろ」と書いたのは、大山氏の書き方がその辺が分かりにくい書き方になっている。1994年は学術論文として発表した年。それを一般書に書き直したのが、1999年の『聖徳太子の誕生』だそうだ。しかし、学会的には、大山誠一氏が「聖徳太子はしなかった論」を唱えだしたのが、1996年ごろ、とされている(下記東大教授の反論参照)だから、下條様、副島先生が,タシリヒコ=馬子説を言われだしたのはいつごろでしょうか。
(引用開始)日本の歴史家は隋書のアマタリシヒコの記述を指摘しません。大山誠一氏の本も読みましたが、本来、隋書の記述から聖徳太子存在しなかった説が始まっているはずなのに、この記述を本に掲載しません。これはおかしいのではないかというのが私の文の意味です。(引用終わり)
伊藤睦月です。この問題は、「倭国伝と推古紀の違い、矛盾」は、1960年代から、日本歴史学会のテーマです。
この問題を取り上げる研究には、
(1)坂本太郎「『日本書紀』と『隋書』」(坂本太郎著作集第二巻古事記と日本書記吉川弘文館、1988年初出1976年)
(2)増村宏「隋書と日本書紀、遣隋使をめぐって」(『遣唐使の研究』同朋社1988年、初出1968.1969年)
などがあります。(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社2011年)
伊藤睦月です。『倭国の時代』は1976年、『日本史の誕生』の第5章「日本建国前のアジア情勢」は1981年の講演会の記録がもとになっているそうです。私は上記先行論文はタイトルだけで内容をチェックしていないので、断定は避けますが、岡田先生が日本歴史学会の論文をチェックしていないとは、思えないのですが。(後で述べますが、岡田先生は、チェックしていないか、引用を明記していない、ありていに言えばパクったのではないか、それはありえる、と思っています)
取り急ぎ、ご指摘させていたきます。
以上、伊藤睦月拝