三角縁神獣鏡について
2054です。今回は三角縁神獣鏡について考察いたします。
(1)学会の見解について
三角縁神獣鏡については、邪馬台国の卑弥呼が魏から賜与された鏡であるとの見解が有力で、三角縁神獣鏡を邪馬台国が独占的に入手し、卑弥呼の晩年から初期のヤマト政権が誕生する数十年にわたって「王権の威信材」として継続的に利用されたとします(福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』、日本史の現在1考古・山川出版社p139)。
学会内では魏で作られた鏡とする通説(魏鏡説)と日本製鏡とする説(日本製説)に争いがありますが、三角縁神獣鏡は畿内において圧倒的に多く出土されており、魏の年号を用いた鏡も島根県雲南市で出土しています。そのため、「もし仮に日本製だとしても、年号などから卑弥呼が魏から賜った鏡として配られたことは明らかだから中心が畿内にあることは動かないだろう」(大津透、日本の歴史1 講談社学術文庫 電子書籍版:8/100%)とします。卑弥呼は畿内に所在することは「明らか」とするわけです。今回はこれらの見解を学会の通説として考察をしてみたいと思います。
(2)魏から出土されない鏡
三角縁神獣鏡は上記のように「魏から送られた鏡」とすれば、不思議なことに魏の領域から1枚も出土されません。このことは学会通説も認めざるを得ない事実です。日本からは数百枚以上の出土があり、日本特有の鏡です。魏の皇帝が邪馬台国に渡した銅鏡とすれば不思議なことです。そのため、学会内では、「それ見たことか、あんな鏡は日本列島で作った模倣品なんだよ」(日本製説)や「いいや、魏の皇帝が普段は作らない三角縁神獣鏡を特注して渡したのだ」(魏鏡説)その他もろもろの百家争鳴状態が続いているようです。
(3)私見について
2054です。結論を先に申し上げると、三角縁神獣鏡は「卑弥呼が魏から賜った鏡」ではなく、邪馬台国が独占的に入手していたものでもありません。「高句麗が製作して東倭が受け取った鏡」と考えられます。その根拠を何点かあげます。
(3‐1)まず三角縁神獣鏡の「送り手:作り手」についてですが、魏でも日本列島でもない「第三の候補」が無視されてきました。戦前の先行研究に梅原末治『増補鑑鏡の研究』(1925年)があり、それを参考文献に挙げる白崎昭一郎『方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の関係』東アジアの古代文化94号(1998年)によれば、中国東北部や北部朝鮮では、三角縁神獣鏡そのものは出土していませんが、三角縁神獣鏡の源流をなす祖型の鏡は、出土しているとのこと。つまり高句麗や公孫氏など、魏以外の国でも三角縁神獣鏡を製作している可能性があるわけです。
(3‐2)つぎに三角縁神獣鏡の「受け取り手」ですが、邪馬台国と決めつけているのは、その当時に中国大陸と交渉しているのは邪馬台国しかないという「決めつけ」によります。そもそも論ですが、その点が誤っています。出土している地域を見れば、東倭が受け取っていることが想定されます。
魏の青龍三(235)年の年号の入った方格規矩四神鏡が出土したのは京都府弥栄町(丹後半島)で、景初四(239)年の年号の入った三角縁神獣鏡は京都府福知山市から出土しています。いずれも邪馬台国の支配領域ではなく、東倭の本拠地です。特に240年正月に東倭は魏に朝貢しています。この東倭の使者は高句麗を経由していますので、福知山市で出土の鏡は、そのときに高句麗から受け取ったものと考えられます。
(3‐3)邪馬台国が畿内にあるとするいわゆる畿内説(学会通説)は、三角縁神獣鏡が畿内で多く発見されることを有力な根拠として、邪馬台国の畿内説は揺るがないと考えているようです。そして、「三角縁神獣鏡を利用した王権の政治活動は、卑弥呼晩年の240年代頃から初期ヤマト政権段階の数十年にわたって継続したと理解できる」と結論付けています(福永伸哉、同掲書p139)。
しかし小林説では、邪馬台国は北九州にありましたがその邪馬台国は高句麗東川王によって滅ぼされており、また、三角縁神獣鏡とも無関係とします。高句麗東川王は近畿地方に東遷して「大倭(やまと)政権」を樹立しますので、近畿地方に多く集中するのは当然の成り行きです。
(引用はじめ:小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p114~116)
早い時期の三角縁神獣鏡には「陳氏作鏡」という銘の付いたものがある。また 銅は徐州から出、師は洛陽から出たと刻された鏡もある。つまりは鏡本体の銅も中 国産、製作者も中国出身なのだが、この形の鏡は中国には一枚もないといわれている。遼東・半島でも出土したという話は聞かない。したがって魏が卑弥呼のために特注したという説が一般的である。しかも、この鏡が大和地方で多く発見されていることから邪馬台国近畿説の有力な証拠とされている。しかし私は、卑弥呼の鏡は前にも述べたように江南の呪術師の持つ内行花文鏡と考えている。
三角縁神獣鏡が列島にしか存在しない理由は、神武がまだ高句麗王だった時代から鏡好きの列島の小国に高句麗支配のしるしとして贈ったからと考える。
刻印の文からみても景初三(239)年という早い時期の三角縁神獣鏡ですら、まったく韻文になっていないので中国産ということはありえないという意見がある。特に魏では韻文で詩を書くのが流行していた時代である。東川王は銅を徐州から取り寄せ、鏡製作者を魏の都洛陽から呼び寄せたが、鏡の韻を注意するような漢人の側近はいなかったらしい。
神武勢力は、東遷して大和地方に入ってからも各地に支配のしるしとして三角縁神獣鏡を配った。三角縁神獣鏡は神武勢の定着した近畿地方で最も多く出土するのは当然なのである。ということは東川王が列島に渡るに際して、鏡製作者と銅を伴っていたと推定される。
(引用おわり)
2054です。小林説による240年代~260年代の政治動向を上画像にまとめました。
【519】仮綬の意味について(2024/12/08 08:46投稿)と【521】東川王の東遷(神武東遷)について(2024/12/09 06:12投稿)と説明が重複しますがご容赦ください。
魏の毌丘倹・王頎によって圧迫された高句麗東川王は、活路を日本列島に求めます。247年に邪馬台国を急襲、卑弥呼を殺害して倭王を僭称します。
九州の土着勢力の反発もあり、近畿地方に向けて東遷します。7年間安芸に滞在し、255年の毌丘倹勢力の没落を機に吉備を征服。その間に東川王も死去します。備前車塚古墳(岡山県)は初期の三角縁神獣鏡が集中して陪葬されており、東川王(神武天皇)の墓と考えられます。
そして神武天皇の息子である神渟名川耳(かみぬなかわみみ)が265年までに近畿地方を征服し、266年正月に綏靖天皇として即位します。これが大倭(ヤマト)政権で、全国各地の土着勢力を支配する際には三角縁神獣鏡を配布したものと思われます。
なお、余談ですが、魏志倭人伝を著した陳寿は、上記のような神武東遷の事実もある程度、把握していたものと推察されます。それが「大倭」を魏志倭人伝に記した理由と考えられます。