戦後日本における統一教会の反共運動でこれまで一番得を人たちは、実は中国共産党です。
戦後日本における統一教会の反共運動でこれまで一番得を人たちは、実は中国共産党です、の件。
かたせ2号です。
中国にきちんと文句をつける言論を、統一教会に約半世紀、長年に独占され、コントロールされたことが、戦後日本の歴史にとって痛恨の極み。
統一教会の原点は、「反共」ではなく「反日」です。
「反共」は日本人からお金を巻き上げるための、悪魔教団とCIAによる口実に過ぎません。
日本はエヴァの邦(くに)。
渡部昇一も、谷口雅春もそれをあえて見逃した人たちということになります。
そして、悪魔教団の統一教会と共闘できないと、マトモな判断をできた日本人たちは、中国共産党に対して物申すことが長年、立場上できなくなった。
日本人は思考停止に陥いってしまった。
その昔、ソ連共産党と中国共産党という左翼の大物同士で大喧嘩してたんだから、日本の左翼も、中国共産党にほんとはきちんと文句を言ってもよかったはずなのにね。ましてや、中国共産党は、経済面では国有化路線を完全放棄しているのだから。
それらの思考回路を、櫻井よしこらに独占されてしまった。
返す返すも痛恨の極み。
それでも、一歩引いて考えるならば、悪魔教団の統一教会と共闘できないという、マトモな判断が尊重してしかるべきです。
世界救世教や手かざし教を邪宗と非難する人は、熱海や信楽にある彼らの美術館には、たとえ自分の興味を引くような展示がされても行かない。
そういう態度と同じです。文句のつけようがありません。
ですから、中国共産党に文句をつけないという態度が、このような健全な判断に基づく反射的な効果、もしくは結果であるならば、それはそれで受忍する他はない。
今まではこういう流れになっていたはずです。
ただし、これから、こういった前提条件が崩れていくはずですから、そのときには自由にものを考えて、かつ、言えるようにしておきましょう。
自由の中で今ある選択肢の中で悩むのではなくて、自由の中からこれからの選択そのものを作りあげていくのに重点を置くべきです。
以上、
連合赤軍のような「総括」をするつもりは毛頭ありませんが、
現時点での総括をしておきます。
<ご参考>
小説「バビロンの王」(著者_高橋将)から抜粋します。約20年前に手に入れた本で、いまだにワタシの手元にある本です。
新興国バビロニアの王、ネブカドネザルに征服された直後の、エルサレムの様子。
「偉大なるエルサレム」を偉大な国・日本、
「新興国バビロニア」を共産主義国、
「バアル信仰のような邪宗」を統一教会に置き換えて読み直すと、
戦後日本の反共運動の様相(ワタシから見たときの)と、ほぼほぼ重なります。
よろしくご参考ください。
あなかしこ、あなかしこ。
(抜粋開始)
翌日の夕、二人(旧約聖書の預言者エレミヤとその弟子のバロク)はエルサレムに帰ると、街の変貌に驚いた。大声で演説している者があちこちにおり、それを聴衆が取り囲んでいる。その容姿、口調はそれぞれ異なっていても、内容はすべて判を押したように同じであった。
「偉大なるエルサレムが新興国バビロニアなどに征服されていてはならない。我々は断固として独立を宣言すべきだ」というものである。
エレミヤとバロクはその中でもひときわ大きい集まりの所に行った。その若き演説者は真剣な顔で、イスラエルの神の名をかたり、人々に熱心に説いている。
「人々の心を一つにして、この国を守っていかなければならない。確かに国民一人一人は、それぞれの立場は異なり、信仰する神も異なっているであろう。しかし、一つのこと、あのバビロンを倒すということ、それだけは、国民すべてが祈り続けなければならない。
バアル信者はバアルの神に、天后(てんごう)信者はアシュタロテの神に、イスラエルの神を信じる者はイスラエルの神に。
皆、それぞれの神に祈ろうではないか。」
その言葉が終わると一斉に拍手が鳴り響く。涙にむせいでいる者も少なくない。
彼らの興奮が少し収まった時、エレミヤが自分の感情を抑えきれずに爆発した。
「イスラエルの神はこのようなことを絶対にお許しにならない。
子供をいけにえとして炎の中に放り込むバアル信仰や、性欲の虜(とりこ)となって神殿で情事に耽(ふけ)るアシュタロテ信者となぜ一緒になれるか。
悪魔と義人が手を組むことは、絶対にない。
なぜそんなことが分からないのだ。」
(抜粋終わり)
以上