プラトンはソクラテスとは、違う思想の持ち主のようだ。(篠原信さんのポストから)

かたせ2号 投稿日:2024/11/23 18:56

プラトンはソクラテスとは、違う思想の持ち主のようだ。(篠原信さんのポストから)、の件について

かたせ2号です。
プラトンとソクラテスの思想の違いって何なんだろう?
という問いが頭の中に立ち始めて、数年がたちます。

この件に対して、考えを寄せてくれているポストをみつけたので紹介します。
京都大学法学部には、高坂正堯やら前原誠司やら、(弁護士を食えない職業にしてしまった)佐藤幸治やら、ろくなのがいませんが、他の学部の出身者はまだ頭の大丈夫な人がいるようです。

篠原信(しのはらまこと)さん。
実務教育出版のサイトから。

https://books.jitsumu.co.jp/book/b487336.html
(引用開始)
1971年生まれ、大阪府出身。農学博士(京都大学)。農業研究者。中学時代に偏差値52からスタートし、四苦八苦の末、三度目の正直で京都大学に合格。大学入学と同時に塾を主宰。不登校児や学習障害児、非行少年などを積極的に引き受け、およそ100人の子どもたちに向き合う。本職は研究者で、水耕栽培(養液栽培)では不可能とされていた有機質肥料の使用を可能にする栽培技術や、土壌を人工的に創出する技術を開発。世界でも例を見ない技術であることから、「2012年度農林水産研究成果10大トピックス」を受賞。著書に『自分の頭で考えて動く部下の育て方 上司1年生の教科書』(文響社)、『子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法』(朝日新聞出版)があるほか、「JBpress」や「東洋経済オンライン」などに記事を発表している。
(引用終わり)

前フリとして、以下のポストを引用します。

https://x.com/wanpakuten/status/1858592831889436746
午前4:27 · 2024年11月19日(JST)
(引用開始)
立花孝志氏「バカな人たちをどうやって上手く利用するか。犬とか猫と一緒なん。バカに(票を)入れてもらう方法を考えるのが、本当に賢い人かな」
この人に感化されて(2024年の兵庫県知事選挙で斎藤元彦さんに)投票した人おる?w
(引用終わり)

かたせ2号です。上のポストを引用して、篠原信さんがNoteに投稿しているので、以下に抜粋します。
下線はかたせ2号がつけました。

https://note.com/shinshinohara/n/n7bc686e38d2e?sub_rt=share_sb
(抜粋開始)
題名_哲人国家はアホ国家 2024年11月22日 11:38

立花氏のこの発言は、典型的な「哲人国家」。
https://x.com/wanpakuten/status/1858592831889436746
国家は賢い人たちに運営してもらったほうがうまくいく、という考え方。プラトンが「国家」という本で提唱したもの。ソクラテスのような賢い人が支配者になった方がうまくいくに決まってるやん、という考え方。しかし私は、
哲人国家は結局うまくいかないと考えている。そのあたりを今回は言語化してみたい。

私が思うに、プラトンはソクラテスの弟子だけど、ソクラテスの真意を見誤っていることの多い人物。ソクラテスは民主主義の基礎を作った人、プラトンは独裁主義を生んだ人、という意味で、好対照。

ソクラテスは、誰よりも深く物事を考える人だったが、どんな人間にも敬意を抱き、話を聞くのを楽しんだ人物だと考えている。ソクラテスは無知な若者にも問いかけ、話を聞くのを楽しみにしていた。すると面白いことに、若者の口からとんでもないアイディアが生まれることしばしば。

「メノン」という本には、無知な者同士が対話して新しい知を発見するというとんでもないエピソードが紹介されている。
ソクラテスが友人宅を訪問し、そこの召使いに声をかけ、図形を前にして「ここはどうなっているだろう?」と問いかけ、召使いに答えてもらった。すると、ソクラテスにも召使いにも数学の知識がなかったにも関わらず、まだ誰も発見していなかった図形の定理を発見する、というシーンを描いている。
この記述は、とんでもない革命的なもののように思う。知識のない平凡な人間でも、問いかけ、答えるという問答をすれば、新しい知を創造できるという発見!

ソクラテスは、この手法を「助産術(産婆術)」と呼んでいる。無知な者同士でも、問いを発し、答えるという問答を繰り返せば、新しい知を創造できるという「発明」は、民主主義の土台を築く上で極めて重要なものだったと思う。ソクラテスは民主主義の土台を築いた人、と私は考えている。

しかし、プラトンはソクラテスの弟子であるのに、どこか思い違いをしたらしい。先ほど紹介した「メノン」という本も、実はプラトンが書いた本。どう考えても、ソクラテスは民主主義的な発想がとても強い人物だったように思う。なのにプラトンは「国家」という本を書いてしまった。

「国家」では、ソクラテスのような賢明な人間に国家を運営してもらえば、理想の国家になるとプラトンは唱えた。それもよりによって、師匠のソクラテスにその構想を語らせるという形で。この「哲人国家」の発想だと、賢い人間以外は愚民であり、賢人に従えばよいだけ、という話になる。

プラトンの「国家」やマキャベリの「君主論」には、庶民の暮らしや民意に心を砕くという姿勢が見えない。「賢い人間が国家を運営したほうがいいに決まっているやん」で思考が停止しているように感じられる。庶民のため、という発想が非常に薄弱。

このために、哲人国家、賢人国家に憧れる人って、どうも「俺達って賢いよね、愚民どもと違う人種だよね」と自己満足に酔って、庶民のことなど無視する、民意を「愚民どものわがまま」とみなして軽視する、という傾向を強める。

自分を哲人だ、賢人だと考え、「愚民どもとは違う人種」と捉えてしまうと、庶民を同じ人間とみなせなくなってしまうのだろう。そのために、庶民の意見を「愚にもつかぬ、聞き入れる必要のない言葉」と解釈し、無視するようになってしまう。そして、自分たちだけで政治を決そうとしてしまうようになる。

必然的に、「賢人である私たちのためになることだけ考えればよい、愚民どもは野垂れ死にするがいい、愚かであることが悪いのだから」と考えるようになり、自分の利益しか考えなくなる。

ではなぜ今、一部の人たちからこの「哲人国家」構想がウケるようになっているのだろう?私が思うに、2つ理由がある。80年代からイギリスやアメリカで新自由主義が広がり、2000年代に日本でも新自由主義がはびこり、富裕層優遇を当たり前と考える思考が広がった。このため。

カネという権力を握った富裕層は、「おカネを稼げる俺達って賢人といえるんじゃない?だとしたら、俺たち賢人が国家を運営したほうがうまくいくよね?そしたら国家はますます繁栄するよね?その邪魔をするだけの愚民は野垂れ字ねばいいよね?自業自得だし」と考えやすくなったのかも。

もう一つは、「自分は賢人側」と考える人の支持。「俺は愚民とは違う」と考えることで自分を慰めたい人が、哲人国家、賢人国家に賛成することで、賢人側に回りたい、という欲望をかきたてているのかも。たぶん富裕層からはその人たちも「愚民どもめ」とみなされているにも関わらず。

つまり、現在増えている「哲人国家」ファンは、カネという権力を握った富裕層が自分を賢人、哲人とみなしたいという欲求、あるいは富裕層でないんだけど自分を賢人とみなすことで一発逆転の発想を持とうとする欲求を持っている人たちなのではないか、と思う。まあ、幼児的。

しかし、「哲人国家」は、やはり崩壊する宿命にあるように思う。ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」では、人口が一定数以下になると、知識や技術を維持することができなくなり、新石器時代にまで技術が退化することがある、と指摘している。私は、哲人国家もその運命をたどるように思う。

たとえばプロ野球選手が「有力な新人が生まれたら自分たちの地位が危うい」と考え、高校野球や社会人野球を破壊しようと企んだらどうなるだろう?プロ野球を目指す人間がいなくなる代わり、ファンもいなくなり、プロ野球を目指す人もいなくなって、プロ野球という制度は成り立たなくなるだろう。

プロ野球という職業が成り立つのは、高校野球や社会人野球だけでなく、草野球や少年野球などの「すそ野の広さ」があるから、プロ野球という頂点が高くそびえ、憧れの存在でいられるのだろう。そうしたすそ野が失われれば、プロ野球も存在し得なくなる。

哲人国家もそうした面があるように思う。もし自分たちだけを哲人、賢人と捉えると、やがて、「愚民」とみなしてきた庶民から「賢人」として這い上がってくる人間を煙たがり、嫌うようになるだろう。すると、賢人だった人たちも次第に愚かな子弟の世代に代わり、アホボンばかりになっていく。

結果、自分たちの利益のことしか考えない人間ばかりが為政者となり、愚民とバカにしてきた庶民の手によって駆逐されることになる。哲人国家、賢人国家は、無言のうちに「自分以外はバカ」とみなすシステムであるために、こうした宿命をたどることになるように思う。

ところで、日本の政治が機能不全に陥り始めているのも、こうした面があるように思う。明治維新、そして戦後昭和の日本は、官僚がかなりの役割を果たしてきた。当時、官僚は地方の優秀な人材が集まっており、地方の夢を託されたという使命感に燃えた人たちが活躍した。

だからある意味、それぞれの地域の「民意」を受けた人たちが国家を運営するというシステムになっていたのだろう、と思う。ところが時代が移り、地方からは人がいなくなり、大都市に人口が集中するようになると、地域の民意を受けて、使命感を持って官僚になった、という人は減ることになる。

国家というのは、常に政治の中心に「民意」への配慮を欠かさないようにすることが、秘訣なのだと思う。なのに、「哲人国家」は、庶民を視野の外に置く。アウト・オブ・視野。哲人国家が機能しえないのは、人類が経験してきたあらゆる政体と比べても民意を無視しがちだからなのかもしれない。

なお、プラトンの提唱した哲人国家思想がナチスを生んだ、と私は考えている。「賢い人間が運営する国家は素晴らしく機能する」という発想が、ヒットラーを賢人とみなし、ナチズムを哲人国家として捉えることを成立させたのだろう。そしてナチスは、国民を愚民とみなす代わりに、「身代わり」を選んだ。
それがユダヤ人だったのだろう。ナチスはユダヤ人を徹底して愚民としてみなすことで、同じ人間としてみなすことを放棄し、「虐殺しても構わない存在」と心理的な処理をしてしまった。これがユダヤ人大虐殺につながったのだと思う。

哲人国家の恐ろしいのは、かなり高い確率で誰かを愚民とみなし、人とみなさなくなり、その人たちが命を失ってもなんとも思わない組織になってしまうことではないか。でもそんなことをしたら、必ず深く恨まれ、それが国家転覆の原因を生むことになるだろう。

ちなみに、プラトンはなぜ哲人国家という構想を生み出したのだろうか。
リュクールゴスという伝説上の人物を知ったからだ。リュクールゴスは、プラトンと暮らしたアテネと並んで、古代ギリシャの強国だったスパルタを、強国に育て上げた中興の祖として知られている人物。

スパルタは少数の貴族によって支配されていた。貴族は子どもの頃から厳しく育てられ、軍人として、将軍として鍛えられた。プラトンはここから着想を得て、哲人国家を構想したようだ。
ところで、哲人国家のモデルとなったスパルタはその後、どのような経緯をたどったのだろうか?

スパルタは一時、古代ギリシャの支配者になるほどの隆盛を見せた。ところが、少数の貴族による支配にこだわったために、支配しきれなくなった。スパルタの強さの理由だった、貴族で構成された軍隊統制システムも、維持できなくなった。自分たちだけを賢人とみなすシステムが機能しなくなった。

ところで、昨今「民度」という言葉をよく耳にする。民主主義がうまく機能するかどうかは国民の民度で決まる、という話。もし国民の民度が低ければ愚民化し、民主主義は崩壊する、という論だ。でも私は、「民度」なんて言葉を作ったから存在するように思いこんでるけど、そんなものないと考えている。

身体と細胞にたとえると分かりやすいように思う。皮膚の細胞や筋肉の細胞は、それぞれ与えられた仕事をきちんとこなしてくれている。だから私たちの生命は、身体は、問題なく健康に暮らしていける。でももし身体全体が不健康な環境に身を置くとどうなるだろう。睡眠不足とか栄養バランスの悪化とか。

一つ一つの細胞は元気を失い、うまく機能することができなくなってしまうだろう。この時、「お前ら細胞の『民度』が低いから全身の健康が損なわれるんだ!」と罵ったからといって、健康を取り戻せるだろうか?否。身体全体が、健康を維持できるような環境条件に置かれないと、細胞は無力。

細胞が活性化した状態になるのには、二つの方法があるように思う。一つは覚せい剤を使い、無理やり活性化する方法。この方法なら、睡眠不足だろうと栄養失調であろうと、一時的に健康を取り戻したかのような元気を出すことが可能だろう。その代わり、その反動が後で必ずやってくる。身体ボロボロに。

もう一つの方法は、身体全体が環境条件(睡眠や栄養、運動など)との「関係性」を改善し、全体としての健康を少しずつ取り戻す方法。この方法なら時間はかかるが、細胞一つ一つが元気を取り戻し、活性化するようになるだろう。

私は、「民度が低いから国家が悪化するのだ」というのは、為政者の責任転嫁だと思う。それは、細胞一個一個の活性度の低さを、身体全体の健康を失った原因とみなすような愚を犯しているように思う。細胞の元気は、身体全体の健康を取り戻さねばムリなのに。

なのに、哲人国家を目指す人々は、国家がうまくいかない原因を「愚民のせいだ」と責任を一方的に決めつけ、それによって自分たちが支配者になろうとする。でも恐らくこの人たちは、支配者になってもなお「愚民のせいで」と、責任転嫁をやめることはないだろう。功績はすべて自分のものにするけど。

そう考えていくと、哲人国家は、自らを哲人、賢人とみなす「愚か者のくせに傲慢な人間によって運営される国家」ということになるだろう。つまり、哲人国家とは愚昧国家ということになるのだと思う。

私は実は、民主主義にこだわっているわけではない。民意に常にアンテナを張り、国民の生活を慮ることを怠らないのであれば、君主国家でも封建主義でも民主主義でも構わないと考えている。民意を探り、国民の生活を考えるシステムなら、国民は(比較的)幸せに生きていけると思うからだ。

しかし、民意を無視し、国民の生活を顧みない国家は、どんな社会体制であろうと衰え、崩壊する。細胞一つ一つの元気さ、活性度を顧みずに身体をいたぶれば健康を損なうように。身体を健康に保ち、細胞一つ一つを元気に保つ。それと同じことが、国家にも言えるように思う。

プラトンは、ソクラテスというとんでもない人間が存在したことを後世の人たちに伝えたという非情に大きな功績を遺したけれど、他方、哲人国家という愚かな構想を生み出すことで、ヒットラーをはじめとする勘違い人間を後世に生み出すという副作用ももたらした。功罪のある人だなあ、と思う。

私が思うに、為政者とは、支配者ではない。民意に常にアンテナを張り、国民の生活を慮って諸事を決めていくのが仕事の人。そういう「役割分担」を担う人でしかない、と考えている。重要だけれど、特別視する必要はないと考えている。庶民のほとんどは、自らの役割である仕事を果たしているのだから。

為政者が自分を支配者だとみなすのは、身体で言えば、脳細胞が「俺が身体の支配者だ」とみなし、皮膚や筋肉、腎臓や肝臓、心臓などの細胞をバカにするようなものだ。でも、それらの細胞がきちんと働いてくれているから、脳の細胞が生きていける。脳は他の細胞に依存して生きていける存在。

皮膚は外からの菌の侵入を防ぎ、筋肉は運動をつかさどって口に食事を運ぶ役割を果たし、胃袋は食べ物を消化し、肺は酸素を取り入れ、血管は全身に栄養と酸素を届け、肝臓は解毒し、腎臓は外へ廃棄する。それらの仕事をきちんとこなすから、身体は健康でいられる。

もし脳細胞が「あいつらは全身をどう操作するかを全然考えない」といって、身体の他の細胞をバカにしたとしたら、「アホじゃないか」と思わないだろうか。それぞれの細胞は自分の仕事を果たしている。脳細胞は脳細胞の仕事をきちんとやれ、という話。これは為政者もそう。

なのに哲人国家に憧れる人間は、まじめにコツコツ働いている人たちをバカにし、愚民と罵り、自分たちの責任を転嫁する。「アホじゃないか」と思うのは私だけだろうか。哲人国家構想は、アホ国家なのではないか、と私なんかは思う。
(抜粋終わり)

かたせ2号です。
ソクラテスとプラトンの思想の違いなんてテーマの文章を見たことがなかったので、上記の文章は大変に貴重でした。篠原信さん、ありがとうございました。

(余談)
かたせ2号です。
あとは余談です。この国(日本)では「歴史は思い出である」(小林秀雄)だそうなので、わたしも同じように無責任に、歴史という思い出について語ってみようと思います。

ワタシがプラトンの「家族制度否定論」を知ったのは、中学生のころに読んだ古谷光敏さんの漫画「だめおやじ」からでした。それから、プラトンの著書はたいがい読書経験のあるワタシも、この家族制度否定論が記載されている「国家」には、いまだに手を伸ばすことができません。

なのに、こんなばかな結びつきをどこまで言っていいのかわからないのですが、
「ポルポトの思想は、マルクスの思想(私有財産否定)の後継でもあり、かつ、プラトンの思想(家族制度否定)の後継でもある」のではないでしょうか?

この考え方を逆転させて表現(解釈)してみると
「プラトンの思想(家族制度否定)の思想が実現させるとこうなることを証明するために、『歴史の神』がポルポトに表舞台に上がらせてそれ(家族制度の否定)を実行させ、その成立のために、あらかじめ、マルクスなる人物を登場させて、補助線を引いた(私有財産否定の共産主義思想を唱えた)」のではないでしょうか?

10ミニッツのサイトから。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4710
プラトン『ポリテイア(国家)』を読む(10)男女平等、家族廃止、財産共有論
(引用開始)
「中心巻」と呼ばれる『ポリテイア』第5~7巻は、これまでの「正義とは何か」という議論に対する脱線部として、「不正とは何か」という議論の前に置かれる。理想のポリスを考える上で「コイノーニアー(共同・共生)」というキーワードが出てくるのだが、ソクラテスは「コイノーニアーをめぐって3つの大波が来る」と言う。その1つ目は「男女同業」、2つ目は「妻子共有と私有財産の廃止」である。かなり過激な提案だが、それぞれどういった意味なのか。
(引用終わり)

かたせ2号です。
なんだよ、マルクスは、経済学的な分析(『資本論』)がどうしても目立つから、見えにくいけど、
目をこらしてよくみると、プラトンの「私有財産の廃止説」を「祖述」しているだけにすぎない。
祖述とは「師や先人の説を受けつぎ、それにもとづいて学問を進め、述べること。」

そしてカンボジアのポルポト政権は、プラトンの「家族制度の廃止」すなわち、普通の男女同士の愛は“肉の子ども”を生むための愛、そして、たった二人の親だけに養育されるより、より多くの親たちに教育されたほうがもっと豊かな人間になれる、の説を忠実に実行してみせた。

だから、プラトンの忠実な弟子は「マルクス」と「ポルポト」。

結局、ソクラテスからすれば「『無知の知』のことを一番言いたかった相手は、実はプラトン、お前にじゃったんじゃ」くらいの気持ちじゃったかもしれん。それだけのことじゃ(方言)。

もう少し書きたいけど、プラトンのイデア説が、カトリックの思想にどのように取り込まれて血肉化したかについての勉強ができていないので、書けません。残念。

以上、「『歴史という思い出』を語った戯言」として、聞き捨てておいてください。

かたせ2号拝