ブレイク:頭の整理(7月2日②)
伊藤睦月です。倭の酋長を封禅の儀に列席させた目的は、一言でいえば。「唐の意向に反した日本への威嚇であり脅し」であったとするのが、通説の見解であり、これには、特段の異論はないようだ。では、この列席の原因となった、白村江の敗戦とその後の対応の説明については、通説、中村説、副島説、伊藤説それぞれ多少とも違っており、その違いを整理することとする。(基本的に伊藤の頭の整理です)
1 学会通説
(1)663年の白村江の戦いの時点で、倭=大和王朝であることを前提。
(2)白村江の戦いに参加した兵士数は、
総数4万2千
(2-1)内訳:余豊璋護衛隊5千、安曇比羅夫率いる本隊2万7千、蘆原君臣(いおはらのきみおみ)率いる後詰め部隊1万)
(2-2)上記部隊の大半が渡海。全滅。
※渡海人数は不明。
(2-3)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和(飛鳥宮?)に撤退。
(2-4)664年対馬。壱岐、筑紫に防御施設と狼煙(通信施設)を築造。防人を設置し防衛体制を構築
(2-5)667年近江遷都。
(2-6)668年正式即位(「天皇」「日本」
初出)
(2-7)671年 天智天皇死去
(2-8)672年 壬申の乱
(2-9)702年 第7回遣唐使(粟田真人)で対外的にはじめて、「日本」「天皇」を名乗る。
2 副島説
(1)倭(広義)=山門国(大和王朝)倭(狭義=九州王朝)
※当時の倭は、原住民王国と華僑王国との連合体であり、白村江の敗戦後、両者がまとまって「日本」を建国したとの岡田英弘説を展開。
(2)渡海して全滅したのは、余豊璋護衛隊5千プラス九州王朝部隊2万7千。計3万7千(伊藤試算)
(3)山門国軍は、余豊璋護衛部隊5千プラス後詰め部隊1万。前者のみ渡海。
(4)これで、旧倭(九州王朝)は消滅し、結果的に 山門国が吸収。
(5)中大兄皇子は、白村江敗戦の報に接するや、直ちに撤退。大和に戻り、防衛体制を固める。
(5)以後、通説とほぼ同じ展開。
3 伊藤説
(1)(広義)倭=大和王朝プラス百済支配地の旧倭(奴国)
(1-1)旧倭は、実質的に華僑の有力者たちが、合議体で国を運営していた。(「漢委奴国王」の金印が統合のシンボル、後年の博多や堺からの連想)
(1-2)旧倭は、白村江以前に、百済(余豊璋)から乗っ取られ、兵站基地とされていた。
(1-2)実際に渡海し全滅したのは、旧倭から徴発された倭人部隊。
(1-3)大和王朝側は、後方支援(那津宮・朝倉宮)のみで戦意はそれほど高くはなかった。
(1-4)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和に撤退。防衛体制を固める。
(1-5)敗戦後、中大兄皇子が早々に撤退したことで、旧倭に軍事的空白ができ、郭務棕らが、占領。
(1-6)671年、白村江の戦いの首謀者、余豊璋(藤原鎌足)の捕縛に失敗。(689年死亡)
(1-7)671年、郭務棕は、新羅の反乱などもあり、占領継続が困難となったので、天智天皇の死亡を機に撤退。
(1-8)旧倭の管理は、親新羅系の天武天皇(もしくは高市皇子)に引き継がれた。
と、ここまでで、小休止。スミマセン。
(以上、伊藤睦月筆)