ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(3)少し脱線
伊藤睦月です。朱子学と陽明学について。今思い付きですが。忘れないうちに書きます。すでにほかの方の弁ならごめんなさい。
(1)陽明学は、実践の学とよく言われますが、思想内容的には、何もありません。空っぽです。
(2)思想体系として朱子学の範疇(はんちゅう)で、それを超えるものではありません。
(3)「知行合一」で説明します。この言葉は陽明学の根本命題だが、それだけでは何のことかわかりません。禅宗の座禅の公案(おだい)のようなぼやっとしたものではありません。
(4)「朱子学」を知って、それを実現するため(合一)「朱子学」を行え。という意味です。意味わかんない?それでは、
(5)この「朱子学」には、人それぞれの朱子学のコンセプトが入ります。
(6)例えば、「大義名分」を知って、それを実現するために、「尊王攘夷」を行え。と入れれば、幕末の志士の思想です。
(7)また、「経世済民」を知って、それを実現するために「放伐」を行え。と入れれば大塩平八郎の思想です。
(8)伊藤睦月です。放伐とは武力行使のことです。
これらのコンセプトは、朱子が、儒学の正統経典として、確定させた「四書・五経」のどこかに出てくるコンセプトです。各人どのコンセプトが刺さるかは、その人によります。だから体制維持(保守)の思想にも体制打破(易姓革命)の思想にも、金儲けの思想にも、戦争の思想にも、平和の思想にも、いかようにもなります。一神教のような絶対者がいないからだと考えます。
以上、思い付きでした。小休止
伊藤睦月筆