ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(4)「神武東征」は山門国の「エクソダス」だ。は、その後の「婿入り戦略」の時代だ。
伊藤睦月です。以下、私のファンタジー。
1 古代の日本列島は、華僑の居留地と、原住民の酋長の支配地が混在していた。
2 神武は、倭国の一族が住み着いた日向の居留地出身。一応王族の傍系だが、「一旗揚げよう」と日向を出て、まずは、ビジネスチャンスがありそうな、倭国の王都、邪馬台国に向かった。書記にあるような船団を率いたのではなく、航海の途中でだんだんと増えていったのであろう。
3 日向を北上し、豊予海峡を抜け、華僑の居留地を伝って、宇佐、宇佐から、遠賀川河口(当時の港湾都市。新羅との貿易拠点であった)まできたところで、邪馬台国に向かわず、方向転換。東に向きを変えて、安芸(宮島)、吉備高島宮へとたどり着いた。
4 伊藤睦月です。神武たちが、邪馬台国に入らなかったのは、邪馬台国が、戦乱(第2次倭国大乱)、もしくは、疫病などがあって、入りたくとも入れなかったのだろう。華僑の居留地は、情報拠点の機能もあった。
5 最近は、倭国を本社、山門国を支社にみたてて、神武をニギハヤニに続く、二番目のセールスマンであるとし、岡本で土器を仕入れたという見解もある(金澤『古代史サイエンス2』)。奈良盆地からは、九州の土器はほとんど出土していないことから、採用しない。安芸や吉備に売るための仕入れと考えられなくもない。寄港地で商売をしながら、畿内に向かった可能性はある。ちなみに、当時岡本は砂鉄の産地として有名だった。
6 最初正面から、難波津に入ろうとしたが、受け入れ拒否されたので、紀伊から伊勢に向かい、山してして奈良盆地に入った。堂々たる征服とは、書紀の忖度であって、実際は、在来華僑の搾取を嫌がった、原住民の酋長たちの手引きによるものであろう。背後から攻めて、一応の貿易ルートを確保した。(神武即位)
6 二代目綏靖(すいぜい)から、9代目(開化)までは、めぼしい、事績がないことから、架空の存在としているのが、通説となっている。
7 しかし、この説は、井上光貞『日本の歴史』(中公文庫)に採用され普及した。そのネタ元は津田左右吉の説による。(『古事記及び日本書紀の研究』)
8 安本美典氏は、津田説が、「実績がないから存在しない」と決めつけるだけで、なんら実証していないと指摘し、実在したと主張している。(数理統計学の手法を用いた「パラレル年代推定法により、神武を、306年から313年、綏靖~開化までの在位期間を313年~396年と推定している)
9 また、前出の金澤氏は、先祖崇拝が現代より、よりリアルであった、8世紀において、架空の先祖を作り出すのは、先祖に対する冒とくであり、実在であった、と主張している。(前掲書)
10 私伊藤は、旧辞(エピソード)は、話を盛るが、帝紀(年代記)は嘘つかない。と考えているので、「欠史八代」も実在した、と考える。
11 この時代の大王たちは何をしていたかというと、地域の豪族(酋長)たちの娘をひたすらナンパ、婿入り婚に専念していたと思う。当時は、娘の婿になれば、その豪族が味方、後ろ盾になってくれる。だから、書記には嫁の実家の記事しかないのだ。いわゆる「閨閥」を形成することで、奈良盆地に勢力を伸ばしていったのだ。
12 そして、奈良盆地の大半の酋長たちと血縁関係を構築して、とりあえず、倭国と貿易利権を争う力を養った。その時代、崇神大王の時代から、対外膨張が始まる。ここで、天皇系図の仕分けが完了した。
以上、伊藤睦月筆