ブレイク:ちょっとくやしい話。

伊藤 投稿日:2024/12/17 13:46

伊藤睦月です。私、伊藤は従来から「遣唐使は、唐帝国に、日本書紀を持参しなかった」「天皇号は、中国皇帝(則天武后)には名乗れず、「スメラミコト」でごまかした」という説を今年5月以降、当掲示板で主張してきた。しかし、この説に類似の先行主張があることを、「発見してしまった」。くやしいが、紹介する。(涙)

 この研究者の名は、倉本一宏、今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当し、山川日本史詳説の古代編を執筆している「正統派」日本史学者だ。世間一般的には、伊藤より、倉本の業績となってしまうだろう。『古代史から読み解く「日本」のかたち』43頁から47頁、倉本一宏・里中満智子2018年祥伝社新書、から引用する。

I(引用はじめ)遣唐使(702年粟田真人が派遣された第7回遣唐使のこと:伊藤)が、中国の王朝に報告する義務があったものとして、国号、君主号、元号、律令、都城、歴史書(日本書紀のこと:伊藤)を挙げましたが、このうち報告・持参しても差し支えなかったのは、どれか、ここで検討してみることにします。・・・中途省略・・・第六の歴史書は、前述のように国史『日本書紀』は完成していないので持参していません。問題は第二の天皇です。これも「日本の君主は天皇です」と報告したら下手をすると戦争になります。・・・途中省略・・・では、どのように報告したか。天皇渡いう漢字は見せずに、「すめらみこと」と読んで聞かせるにとどめたはずです。中国の歴史書には、「主命楽美御徳」という六文字の漢字で記されています。誰かの入れ知恵があったのか、遣唐使は苦肉の策で折合いをつけたのです。

(以上、引用終わり)

 伊藤睦月です。書いてて脱力感を味わっていますが、ここでもう少し書き込みます。

(1)本書が一般向けの歴史素人漫画家との対談集(新書)なので、倉本氏の業績にカウントされない可能性がありますが、同テーマで、学術論文を発表されたりしたら勝負あったです。

(2)読んで聞かせるですんだはずはありません。それなら「主命楽美御徳」の文字が中国側資料に残されるはずはないのです。皇帝には原則口頭で話すことは許されず、大半は文書(上表文、書とかいう)で皇帝の部下スタッフに提出され、審査を通過したものが皇帝が見る。だから「天皇」という表記の入った書を見せられるはずはないのです。日本書紀も同様に「天皇」と表記されていますから、中国側に見せられるはずがない、というのも同じ理由です。「すめらみこと」というふりがなは、国内向けです。このことは、東洋史学者の西嶋定生が、1980年代から指摘していたことで、倉本は西嶋説を「採用」している可能性はあります。

(3)さらに、粟田真人が謁見した皇帝は、「則天武后」です。「天皇」という言葉は、則天武后が自ら名乗った言葉から、日本で作られたものです。なお、このことをおそらく初めて解明したのが、斎川眞、副島隆彦『天皇とは北極星のことである』です。私の知る限り。

(4)だから、則天武后の前で「日本天皇」と名乗るのはできなかった、と思われます。ちなみに、「天皇号」の使用を認めてもらったのは、唐滅亡後、北宋太宗皇帝のときからだと思われます。(新唐書日本伝、宋書日本伝)

 伊藤睦月です。かねてから、「先行研究には十分注意と敬意を払え」と強調していた私が、このていたらくですから情けない。

 これでは、この掲示板上で、えらそうにいう資格はありません。皆さんも「他山の石」にしていただければ幸いです。少し頭を冷やします。

以上、伊藤睦月拝