ブレイク(:九州王朝説(日本古代史研究のトリックスター、古田武彦ら「在野の巨人たち」について)
伊藤睦月です。今回は「古田武彦」について。この人はちょっと厄介だ。古田は、1926年生まれ、東北大日本思想科を卒業したあと、高校教師をしながら、日本古代史、親鸞の研究、発表を続け、1984年からは、昭和薬科大学の教授に迎えられている。2015年死去。
伊藤睦月です。「古田武彦」といえば、『邪馬台国はなかった』(1971年)『失われた九州王朝』(1973年)で、「魏志倭人伝には、「邪馬台国」は存在せず、「邪馬壱国(やまいちこく)」としか書いていないので。ヤマタイコクと書いている先行研究はすべて誤りだ」「卑弥呼女王の都は、魏志倭人伝上博多湾周辺しかありえない」という主張で、業(学)界を震撼させたらしい。 また当時としてはいち早く「九州王朝説」を唱えて話題をさらうなど、歴史研究者や愛好者間ではかなり有名な人物だ。彼の「九州王朝説」については、学会内での支持者、と思われる、若井敏明(関西大学非常勤講師)の要約を紹介します。
(引用開始)※番号は伊藤付加
(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、やまいちこく)が九州にあったことと、『三国志』の『魏書』東夷伝倭人条(以下、『魏志』倭人伝)以降の中国史書に見える倭には、連続性が認めれることを主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで、存在したとする。
(引用終わり:『謎の九州王朝』祥伝社新書2021年)
(2)伊藤睦月です。この7世紀末というのは、633年の白村江の戦いで、「旧唐書倭国伝」の倭国、すなわち、「九州王朝」が滅んだとし、その最後の王が665年に郭務綜が来日した際に、捕虜として返された「筑紫君」だとする。
(3)そして、天武天皇の即位後に、焼失後再建された法隆寺が「九州王朝」の都、「大宰府」の寺院から、飛鳥に移築された、という考古学の成果などを根拠に、実は、天武天皇は、天智天皇の弟でなく、「九州王朝」の王族であり、672年の壬申の乱で、大和王朝系(古田は、近畿天皇家、九州天皇家、両方とも同じ「アマ」氏だとする)の大友皇子を倒して政権を簒奪、その孫の文武天皇のときに、反天武系がクーデターを起こして、国号を「日本」と改め、粟田真人が、遣唐使で、則天武后に報告、日本国号の使用と合わせて、王朝の正当性の承認を得た、という。
(『古代は輝いていたⅢ法隆寺の中の九州王朝』)1985年)
(4)そして、「日本書紀」に「九州王朝の歴史書(日本旧紀)」を大幅に取り入れ、日本書紀の神代編に「一書」という形で九州王朝の神話を取り入れたとする。そのことによって、天武系の正当性を主張しようとした、とする。(『盗まれた神話 記・紀の秘密』1983年)
(5)伊藤睦月です。以上を読まれた方、以前の私の投稿をご覧になった方は「あれ、どこかで見たような見解だな」と思いませんでしたか?アイデアてんこ盛り。古田の学説は、今まで学会でまともに取り上げられることはなかったが、一部の学会や歴史愛好家には、未だに熱烈な支持者がいるようで、彼らは「古田学会」という自主研のようなグループを結成し、機関誌も発行しているようだ。彼の単行本は400ぺージくらいで27冊あり、そのすべてが、ミネルヴァ書房という書店から「古田武彦古代史セレクション」という全集本で復刊されている。ちなみに、この機関誌の存在は、昨日(11月17日)福岡市の大型書店で見つけた。その横に、下條氏の本が平積みで3冊ほど積んであって正直じわった。ちなみにその機関誌は買ってない。
(5)伊藤睦月です。古田とは生前親交があり、良き論争者であった、「家永三郎」(1913年ー2002年、東京教育大名誉教授、専門は日本古代史、「家永教科書裁判」という憲法訴訟の分野では有名な判例で、昭和や平成前半期の法学生には有名だった)は古田のことを、「精緻な論証と主観的独断の共有する古田学説」と評したが、日本史学会の学者たちの大半が古田を無視したなか、ただ一人、論争に応じ、共著までだしている。この家永三郎、学者としての業績評価は知らないが、なかなかの人物、だと私、伊藤は思います。
(6)伊藤睦月です。古田は47冊の本を通じてありとあらゆる、大量の仮説を書き散らし、いや提示してきているので、九州王朝に関する仮説は、たいがいは、古田の本から見つかるだろう。
(7)私の経験を言えば、かつて、「白村江の戦いは、残敵殲滅戦」だと書いて、少し悦に入っていたが、後日、同じ文章を古田本のなかから見出して、テンション下がった記憶がある。「自分の頭で考える」ことなど、たいていは、思い上がりでしかない「中二病」であろう。もちろん、自分の頭もその程度だ。
(8)1970年代~80年代の「古代史ブーム」の立役者といえば、ほかに、松本清張、高木彬光、宮崎康平、梅原猛、江上波夫、などが、よく読まれた。井沢元彦は松本、高木の系統であろうこれらのスターたちは、学会では、江上を除き、あまり取り上げられることはないし、学者たちの重箱の隅をつつくような議論、論文はさほど気にしなくても、こういう在野の歴史マニアが信奉する論者たちの見解には、注意を払う必要があると思う。
以上、伊藤睦月拝