それでも、学会新説に突っ込みをいれてみる(7月3日)
伊藤睦月です。まずは、彼ら、学会の若手・中堅研究者(中村は1959年生、河上は1980年生まれだけど・・・)が対峙している、「通説」を確認しておく。
(引用はじめ)
「日本古代史研究の世界では、白村江の敗戦以後の「占領下」の日本を描く論考は、ひとつとして存在しない。日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐との友好関係を保ち、唐の律令を導入して、国力の充実を図ったというのが定説である。」(中村修也「天智朝と東アジア」2015年6頁)
「日本は古代のある時期、中国との対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に「大国」とみなすことはなかったという説が根強くある。」
「遣隋使を日本古代対外交渉史上の画期(日出る処の天子・・・)とする説は、近代(戦前昭和)に入り教科書に採用された。」
「現在では、高校の歴史教科書からは、遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが記述はずいぶんあっさりしたものの、義務教育の教科書では、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある。一般向けの書物もまた同様である。遣隋使が中国との対等な立場を主張したという説は、21世紀に入った今日でも常識として社会に共有されている。」(川上麻由子「古代日中関係史」中公新書2019年はじめに)(引用終わり)
伊藤睦月です。この通説に対し、中村は、
(引用はじめ)
「7世紀の日本が、近隣の朝鮮3国とかかわりながら、唐という大国(すなおに「世界帝国」と書けばいいのに・・・)と戦い、敗北した白村江の戦は、20世紀において、アジアを巻き込みながら、アメリカという大国と戦い、敗北した第二次世界大戦と共通する点がみいだせるということである。もちろん科学の進歩など、細部においては全く異なることは当然である」
「しかし、大国と戦って敗戦すれば、占領支配を受けるといった戦争の法則から外れることはないはずである。逆の例であるが、近代において日本が日清戦争に勝利したとき、下関「講和」条約において、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金二億両の支払い等を清国に認めさせている。・・・戦勝国が敗戦国に何も要求しないということは、戦争の常識を覆す論理である。それを肯定することはできない。」(中村前掲書、伊藤一部加筆)
(引用終わり)
伊藤睦月です。「論考は一つとして存在しない」「戦争の常識を覆す論理」だからこそ、我々素人筋にも議論に参加できる余地がある。だから歴史学、そして学問は楽しい。
参考までに、1990年代の「定説」も紹介しておく。現在と当時の諸情勢、背景に思いを致すのも、また楽しからずや。
(引用はじめ)
「「もはや戦後ではない」はあまりに有名なフレーズだが、白村江「戦後」とは厳密には「まだ戦後ではない」であった。・・・大唐帝国の圧倒的な物量の前に前例のない大敗を喫した敗戦国=倭国が、「戦後」は戦勝国である唐の制度や文明に学び、それこそ奇跡的に日本に生まれ変わったという、語り継がれてきた敗戦史観。われわれはそろそろ、これを根本から見直すべき時期に来ているのではあるまいか。(遠山美都男「白村江」講談社現代新書エピローグ1997年)」
(引用終わり)伊藤睦月です。遠山は、1957年生まれ、中村とは2歳違いだが、学者としては一世代前の人のようだ。とりあえず小休止。
(以上伊藤睦月筆)
追伸:藤原肇氏については、当分の間、保留します。昔、小室直樹先生と対談本を出していて、その表紙の写真の山羊髭が気に入らなかったことを思い出した。人を外見で判断してはいけないことはわかっているが、こればかりはどうしようもない。すみません。なお、この人の要約は要注意だと思う。
(以上)