しばし、小休止します。運が良ければ、執筆再開します。そして、私の「座右の銘」について
伊藤睦月です。本日は2024年10月13日午前6時45分です。(この書き方も久しぶりだな)
この掲示板でも、ちらちら書いてきましたが、明日から入院します。執筆再開時期はわかりませんが、
早くて、来月になると思います。2054さん、温かいお見舞いの言葉ありがとうございます。私の入院のことは、副島先生にも報告済みで、それで1昨日、先生から激励のメールをいただいたところです。というようなことを書くと、また守谷のような馬鹿から、「権威主義者」とよばれそうですが。そうなると、「権威者」は副島先生ということになりますが、苦笑するしかない。なぜなら、副島隆彦ほど、この40年間、そして今も、世の中の「権威者」と闘い続けている人はいないから。私は、1990年の「英語辞書大論争」以来の、「副島ファン」です。読者というにはおこがましい。私は、「副島学」に傾倒していても、「副島教」には帰依していないので、守谷のような発言に接すると、どうも「既視感」がぬぐい切れないのです。またか。私が20年間サボっていた間でも、副島先生は、倦まず飽かず相手されてきたのか、と思うと、おもわず背筋が伸びます。
それはともかく、今回は、私の座右の銘、2本紹介します。まず、1本目
子曰く、学んで思わざれば罔(くら)し。思って学ばざれば、殆(あやうし)。(論語為政第二)
日本語訳は、宮崎市定訳が一番好きです。
(宮崎訳)子曰く、教わるばかりで自ら思索しなければ、独創がない。自分で考案するだけで教えを仰ぐことをしなければ、大きな落とし穴にはまる。
伊藤睦月です。この言葉、この宮崎訳に出会ったのは、私が20歳のとき、45年前です。注釈はしません。論語自体2500年前の書物と言われていますから、私が苦笑しているのも、わかる人には、わかるでしょう。
また、これには、宮崎にしては珍しく、注釈をつけています。のでそれを引用します。これ以上付け加えることはない。
(引用はじめ)この言葉は教育、研究の妙諦(みょうてい)を言い当てたもので、千古に通ずる真理である。教育とは要するに全人類が進化してきた現在の水準まで、後生を引き上げてやる手伝いをすることである。言い換えれば個体が系統発生を繰り返すに助力することである。もしこういう助手の存在意義を軽視して、全く独自の力でやろうとすれば、大きな時間と精力のロスに陥る危険がある。
昔ある農村の青年が非常に数学が好きで、小学校を終えたあと、農業に従事しながら十年かかって数学上の大発見をしたと、町の中学の教諭に報告してきた。なんとそれは二次方程式の解き方であった。中学へ入って習えば、1時間ですむことなのだ。独力でそれを発明する力をもっと有効にほかに使えば、本当に有益な研究ができたかもしれない。
(引用終わり。『現代語訳論語』(岩波現代文庫2000年、初出『論語の新研究』1974年))
伊藤睦月です。2本目です。
(引用開始)「議論する」とはどういうことかをわかっていないのだ。議論とは、相手を言い負かすことでなくて、自分の弱点を徹底的に考える、といことである。
(引用終わり。副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章(講談社アルファ文庫1999年、初出『現代アメリカ政治思想の大研究 世界覇権国を動かす政治家と知識人たち』1995年)
伊藤睦月です。この言葉は、35歳の時、今から30年前に出会って以来、ずっと私を公私両面で支えてきた。そのおかげで、時には、つらい目にもあったけど。(苦笑) この言葉に会えて、本当に良かったと、65歳を超えた今、そう思います。
皆様のご多幸をお祈りします。
伊藤睦月拝