こんな戦国時代史のプロットを頭に描いてみた
(前置き)
以下のような戦国史のプロットを描いています。
なにかの参考にしていただければ幸いです。
以下の内容を、いずれきちんと根拠資料を再整理して、文章にできたらなあ、と考えています。
なお、本能寺の変の真相については、副島隆彦先生の「イエズス会による爆殺説」をそのまま使わせていただいております。
(プロット)
・大きい絵図でいけば、日本におけるキリシタン大名の代表格は、大友宗麟と織田信長、この両名。ほぼ同格。
ただし、両名の主君はともにイエズス会。
・「天正」の元号の時代が、日本の危機の時代。「Tensyou」は「Tensy」でほぼ「天主(デウス)」と同音。元号の名付け親は信長。
・イエズス会に街が寄進されたのは長崎が最初ではなく、高山右近が城主となった現大阪府、高槻の地が実質的に最初。
・イエズス会が織田信長を「除去」しようとした「動機」は、荒木村重攻めの際に信長が、高槻城主、高山右近および宣教師たちに行なった脅迫行為。
これで信長は、「この男(信長)は主人の手を噛もうとする『しつけのなっていない』犬」であるとの判定を受ける。以降、イエズス会は「ポスト・信長」後継者選定に着手。
・信長の後継者に、秀吉が密かに選定される。
・いつの時期かは特定できないが、イエズス会容認のもと、秀吉が仇敵であるはずの毛利家と「信長打倒」で密約を結ぶ。毛利家は、滅亡を免れること(所領安堵)が条件。
・本能寺の変の前年、西暦1581年、イエズス会のトップの来京に合わせて、馬揃え(軍事パレード)を敢行。
ヴァリニャーノ(イエズス会のトップ)は、柔和な態度で信長に接したと思われるが、「主人の手を噛もうとする『しつけのなっていない』犬」という信長への評価ほおそらく変わらなかったのだろう。
・イエズス会は、「犯人役」をしたてるべく、信長に「グレゴリウス暦の変更を朝廷に強要」をさせる。信長は自らの墓の「墓掘り人夫」をさせられているのに気づかない。
・朝廷の存在意義である暦についての介入を、消滅の危機と判断した朝廷側は、明智光秀に信長抹殺を依頼。
・そのころに、おそらく秀吉側から明智光秀に「信長を無防備な本能寺に誘いこむから、その時に討滅してくれ」と依頼。光秀も了解。
これで「犯人役」が仕上がる。
・西暦1582年、本能寺の変、当日。光秀が亀山城から本能寺に出撃するも、イエズス会がすでに信長を完全爆殺。主君殺しの汚名が光秀にかぶせられる。
・秀吉の中国大返し。結論としては「毛利家とイエズス会(秀吉)との権力者共同謀議」。中国大返しは、毛利家の協力なくしては成り立たない。
司馬遼太郎のいう「毛利は律儀者(だから撤退する秀吉を攻めなかった)」とかそういう安易な話ではない。
また、山崎の合戦の秀吉方の最前線中央には高山右近が布陣していることから、これはイエズス会容認の布陣である、すなわち、秀吉の主君がイエズス会であることは明らか。
・光秀との密約を裏切っての、山崎の合戦勝利後、信長亡き後の後継者争いの主導権を秀吉が握る。本能寺の変で利益を得たのは、毛利家とイエズス会、そしてもちろん秀吉。
まだまだ続きますが、こんな感じです。
(補足)
・本能寺の変は、光秀(朝廷)、イエズス会、秀吉、毛利家が「全員」、信長抹殺の意図でそれぞれが行動を起こしたと私は解釈します。
だから「全員悪人」。
アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」とほぼ同じことが起きたと推察します。
・秀吉の中国大返しは「毛利家とイエズス会(秀吉)との権力者共同謀議」と判定せざるを得ないと、考えを定めて、ようやく上のプロットが仕上がりました。
今後について、大きくは、
「秀吉は主君を2回裏切った。最初は信長(本能寺の変)、次にイエズス会(大友勢力消滅直後のバテレン追放令発令)」
「生き延びた明智光秀が会津出身の天海に『背乗り』して、豊臣家とイエズス会(を主力とするカトリック勢力)とに壮大な復讐劇をなしとげた」
が続きますが、細かいプロットは別途記載します。
そういえば、信長を祀る神社は、明治時代の京都は船岡山に建勲神社ができるまで、ただの一つもできませんでした。朝廷(光秀)、秀吉、江戸幕府(天海)、その全てに嫌悪されていたのなら、いたしかたないなと考えます。
以上