これまでの人生体験と読書経験によって得た主張を示す。
松下幸之助の、どっちが偉い偉くないというのはないのだ、みんな、偉いのだ(人間は万物の王者)、という思想。
理解はできるものの、本気でこう思えるのは至難の技だ。
松下幸之助.comサイトから引用する。
https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-113.php
(引用開始)
人間は万物の王者――松下幸之助のことば〈85〉
人間はえらいものである。たいしたものである。動物ではとてもできないことを考えだして、思想も生みだせば物もつくりだす。まさに万物の王者である。しかしそのえらい人間も、生まれおちたままに放っておいて、人間としての何の導きも与えなかったならば、やっぱり野獣に等しい暮らししかできないかもしれない。『道をひらく』(1968)
解説
人間は「えらいものである」「万物の王者である」。松下幸之助の哲学が凝縮されたこの簡潔な言葉の萌芽を「PHPのことば」(1951年9月発表)にみることができます。そこには“まことに人間は偉大な存在である”という、幸之助の“人間宣言”が掲げられています。
そしてのちの1972年8月、幸之助は自らの思想・哲学を集大成した『人間を考える』を刊行、“新しい人間観の提唱”文を発表します。その文章のなかにも“まことに人間は崇高にして偉大な存在である”という一文がみられます。
幸之助いわく、『人間を考える』という本は“水のようなもの”。読む人によってさまざまに受けとることができ、さまざまに生かすことができるものと考えたのでしょう。そのせいか、誤解されかねない(新しい人間観の提唱文では「王者」「偉大」「支配」「君臨」といった)表現もあえて使って、自らの人間観の真意をストレートに伝えようとしています。
たとえば王者は覇者でなく、偉大は尊大ではないのですが、支配・君臨などは社会一般で使われる字義とは異なる(その意を、万物に従いつつ万物を導き生かすこととした)ため、注釈をつけています。発表前、そうした本意が伝わるのかどうか、幸之助自身少なからず心配したようです。その結果はというと、賛否両論あれど多くの方々に支持され、時代性もあってか、とくに20代、30代の若者に広く読まれる著作となりました。
学び
人間はえらいものである。
万物を支配する王者である。
(引用終わり)
かたせ2号です。
これまでの人生体験と読書経験に基づいて、私は以下のように主張する。
松下幸之助のこの思想に到達するためには、まず、
「他人をあざける気持ちが心から一切起きなくなること」が必要条件である。
そして、この心境を得るためには、人間に残された最後にして最強の執着である「人から偉く思われたい気持ち、人の上に立ちたい気持ち」を手放さなければならない。
イエス=キリストは言った、「だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるでろう。」(マタイ福音書 23章11-12節)
この執着を断つのは非常に難しい。その理由は、これがそのまま自分自身の努力向上の原動力となっているからだ。だから簡単には手放せない。
これを手放すには何が必要か?
「称賛を得られる可能性のあることにすべての才能と努力とを試みて、結局、全て、見込みが得られなくなった」状況に追い込まれることが必要である。
追い込まれたときに、それでも、前に進む、世の中に「価値」を提供してみせる、とみずからの決心で覚悟を決め志(こころざし)を立てたとき、他人を嘲る気持ちはようやく消える。湧かなくなる。他人からの称賛を求める気持ちが自分の努力・向上にとって必ずしも必要がなくなるからだ。
このように、他人を嘲る気持ちと、他人からの称賛を希(こいねがう)気持ちとは、同一であり、表裏一体である。両方残るか両方が消えるかのいずれかである。
この魂の飛躍を経て、人間はより大きな自由を得られることとなる。
最後に。
すべての自らの才能と努力をこころみて、周囲からの評価が全く得られなかったときに、あなたは、天使になるための階段の入り口に立っている。そこの階段をのぼっていくかどうかは、神が決めることではなく、神から、あなた自身の今日一日の決断に委ねられている。だから、喜びなさい。
<補足>
かたせ2号です。
私の洞察ではあるが、松下幸之助には決して人をあざける心は起きなかったであろう。
だからこそ、自らの部下を、命がけで、全身全霊を込めて、叱り飛ばせたのである。
幸之助の叱り方のすさまじさのエピソードを以下に引用する。
実録!目頭が熱くなる「名経営者の一喝」【1】
PRESIDENT 2010年9月13日号 加護野 忠男
https://president.jp/articles/-/8027?page=1
(引用開始)
日本の優れた経営者は叱り上手だった。その凄まじさでよく知られているのは松下幸之助氏である。
松下電器(当時)に工員として入社し、その後松下氏の命で三洋電機の設立に参画し同社の副社長まで務めた後藤清一氏は、松下氏に叱られたときの経験を次のように記している。
「すぐ来いッ。晩の10時ごろ。親戚の人と何やら話をしておられたが、私の姿を見るなり、人前もかまわず、こてんぱんに怒鳴られる。見かねて親戚の人もとめに入るが、それでやめるお人ではない。部屋の真中でストーブが赤々と燃えている。火カキ棒で、そのストーブをバンバン叩きながら、説教される。ガンガン叩くので、その火カキ棒がひん曲がる。フト、それに気づいた大将は、ぬっとつきだす。“これをまっすぐにしてから帰れッ”。あたるべからずの勢い。ついに私は貧血を起こして倒れてしまった。これほど生真面目な叱られ方をしていたらしい」(『叱り叱られの記 新装版』後藤清一)
期待をかけている後藤氏だからこそ、ここまで激しくなったのだが、相手が倒れるほどの勢いで松下氏は部下を叱りつけていたのである。
(引用終わり)
かたせ2号です。
本物の厳しさと本物の優しさとは表裏一体である。
話は飛ぶが、政治家・田中角栄もたぶん、この辺のことはわかっていたのだと思う。彼は人をあざけらなかった。あざける気持ちも起きなかった。だから私は田中角栄のことを人間として尊敬する。
記事「田中角栄の名言」から。
http://earth-words.org/archives/8268
(引用開始)
人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを
愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。
東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、
現実の人間を軽蔑してしまう。
それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。
そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちを
そのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。
政治の原点はそこにあるんだ。
(引用終わり)
以上