【474】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(4)
伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足を続けます。
(16)関裕二説(余豊璋=藤原鎌足説)の骨子は以下の通り
(引用はじめ)すなわち、中臣(藤原)鎌足は百済王子・豊璋で、「人質として来日していた豊璋は、全方位外交を展開する蘇我系政権を打倒しようと暗躍し、のちに親百済派の中臣氏の系譜に紛れ込み中臣鎌足を名乗るようになったのではないか(引用終わり)(関裕二「豊璋 藤原鎌足の正体」)またそう推理する根拠としては、①藤原鎌足が活動している間は、余豊璋は史書に登場せず、余豊璋が活動している間は、藤原鎌足は行方不明になり、白村江の戦いの後、余豊璋がいなくなって、鎌足が史書にでてくること。
②藤原鎌足は、人肉の塩漬けや政敵を平気で殺す等、当時の日本人にない、風習、残酷な行いをしており、日本人らしくないから。
としています(伊藤要約)
伊藤睦月です。私は②には疑問です。日本人は、原住民と華僑で構成されているとすれば、当時の日本にも中国の食習慣である、人肉食の習慣が少なくとも華僑たちになかった、とは言いきれません。塩漬けもしかり。後年藤原氏は、政権をにぎりますが、そのときに人肉や肉の塩漬けを食べる習慣を日本に持ち込まなかったのはなぜでしょう。仏教教育の賜物とも考えられますが、じゃあ、本場の中国やインドではなぜ、という疑問は残ります。仏教説話に残ってないものか。また関氏は、別著で、藤原氏は中国伝統の政治術「外戚政治」で天皇家を乗っ取ったと主張していますが、それでは、中国のもうひとつの伝統的政治術「宦官政治」を取り入れなかったのはなぜでしょう。宦官は遊牧民族特有の文化だから、では論拠弱いです。江戸時代では「宦官」にかわるものとして「茶坊主」を採用します。が、「それで?」と言われれば困ります。これ以上うまくつながりません。
(17)その点①はアリバイ問題なので、検証可能です。、私、伊藤は詳細に検証したわけではないですが、ざーと一読した限りで、納得しました。ファンタジーですから。お許しを。有力な反証がでてこない限り、関裕二説を支持します。
(18)伊藤睦月です。それではパラグラフ(3)の補足説明に移ります。
(引用はじめ:パラグラフ(3))
3)日本書記によると、戦後、671年、壬申の乱(672年)の直前、「郭務ソウ」という唐帝国からの使者が2000人の兵とともに、47艘の船で、来日し、筑紫(倭国地域)に翌年まで駐留している。その来日目的は、百済残党の頭目、余璋(=藤原鎌足)と共犯者中大兄皇子の捕縛及び、百済残党の兵站基地であった、倭国地域の占領と地域内での備蓄物資や女の略奪、戦いの犠牲者のための報復、である。ところが、余璋(藤原鎌足)は、すでに死亡しており(669年)、中大兄皇子は、日本王(天智天皇)に即位していて、うかつに捕縛できなくなっていた。そのうえ、重病で死にかかっていたため、天智天皇の監視に切り替え、翌年天智天皇の死亡を確認してから、(略奪・報復を完了した)兵士たちを引き連れ、帰国した。
なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。
(引用終わり)伊藤睦月です。この項は、副島説の引用から始まります。
(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁
伊藤睦月です。副島先生のいわれる「中国の文献」を現時点では確認できていませんので、この記述の賛否は保留させていただきます。そのうえで、日本書記には、「郭務棕」は3か所でてきます。
(引用開始①:以下日本書記(下)全現代語訳:宇治谷孟:講談社学術文庫)(天智)3年(664年)夏5月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官か)劉仁願(りゅうじんがん)は、「朝散太夫郭務棕」(ちょうさんだいぶかくむそう)らを遣わして、表函(ふみひつ:上表文を収めた函)と献物をたてまつった。
六月、嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと:天智天皇の祖母)が薨じた。
冬十月一日、(天智天皇は)郭務棕らをおくりだす勅をお出しになった。この日鎌足は、沙門智祥(しゃもんちしょう)を遣わして、品物を郭務棕に贈られた。
十月四日、(鎌足は)郭務棕らに饗応された。
十二月十二日、郭務棕らは、帰途についた。(以上引用①おわり)
(引用②開始)
天智4年(671年)九月、(天智)天皇が病気になられた。・・・
十一月十日、対馬国司が使いを大宰府に遣わして、「今月の二日に、沙門道久(どうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)(百済救援の役(=白村江の戦い)で唐の捕虜となった)、韓島勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのきのおびといわ)の四人が唐から帰ってきて、
「唐の使人(しじん)、郭務棕ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島(ひちじま:対馬のなかの島のひとつか?:伊藤)に着きました。(彼らと語り合って)今吾ら(われら)の人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向こうの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました」と申しております」と報告した。
(引用②おわり)
(引用③はじめ)
(天智)四年(671年)十二月、天智天皇はお崩れ(おかくれ)になった。
(天武)元年(672年)春三月十八日、朝廷は、内小七位安曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務棕らに告げさせた。郭務棕らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声をあげて哀悼を表す礼)をし、東に向かって拝んだ。
三月二十一日、郭務棕らは再拝して、唐の皇帝の国書の書函(ふみばこ)と信物(くにつもの:その地の産物)をたてまつった。
夏五月十二日、鎧(よろい)・甲(かぶと)・弓矢を郭務棕らに賜った。この日、郭務棕らに賜ったものは、合せて、太𥿻(ふとぎぬ)千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤であった。
夏五月三十日、郭務棕らは帰途についた。(引用③終わり)
伊藤睦月です。これから次のことがわかります。
(19)
①副島説では、唐の「軍隊兼使節」が来日したのは、2回、665年(劉徳高)と669年(郭務棕)です。いづれも、2000人の軍隊を連れています。
②日本書記によれば、2回、664年と671年の2回、664年のときは、「朝散太夫」郭務棕。軍隊を連れてきたとは記されていません。「太夫」という職名から、文官だったと考えられます。(武官が文官に転換したかもしれません)文官の資格なら軍隊を連れていかなくても、不自然ではありません。644年といえば白村江の敗戦の翌年。669年の時点で、捕虜の返還などしていますから、まだいわゆる戦後処理は終わっていない。664年のときは、郭務棕は、文官として、わずかな供を連れて来日し、大津京まで行ったと思います。それでも日本側は手を出せない。天智天皇には拝謁できなかったでしょう。ビビりの天智いや中大兄皇子は、郭務棕に逮捕されるのが怖かったのでは。伊藤の空想ですが、このとき提出された唐皇帝の手紙の内容は、余豊璋及び共犯者中大兄皇子の逮捕協力依頼状だったのでは。中国側はこのときは、天智天皇=中大兄皇子とは、気づいていなかったかもしれません。大津京では、郭務棕は接待を受け、贈り物をもらい、天智天皇の祖母の死を名目に体よく帰ってもらいました。このとき、宴会接待を受けたり、招いたりしていましたが、その中になんと藤原鎌足もいたのです。なんと大胆な、ビビりの中大兄皇子とちがって、大胆というか、ばれないと思ったのか、このときは、郭務棕側が、鎌足を招いていますので、今でいう任意事情聴取というか、腹の探り合いをしたのでは。ここで郭務棕は確信した、と思います。藤原鎌足こそ、あの行方知れずの余豊璋に違いない、と。しかし、捕縛隊を連れてきてませんでしたので、いったん国に戻って、皇帝に報告し、出直すことに決めたと思います。そして、671年満を持しての来日です。
このときは、(皇帝の)使人「郭務棕」です。600人というのは、捕縛隊(軽装備)でしょう。送使「沙宅孫登」ら1400人は護衛部隊(重装備)でしょう。対馬の港に入ったところで、防人に攻撃されないように安全通行許可を求めています。当時の国際慣習にならった、もう本格的な警察部隊です。名目は捕虜返還。今回こそ、部隊を引き連れて大津京まで行きたかったでしょうが、さすがに筑紫(旧倭国地域。大宰府政庁がありました)で止められました。そして筑紫から先に行けないように、しかし刺激しないように、防人で包囲したと思います。あとは大津京とは手紙のやり取りが続いたのでは。その間、郭務棕の部下たちは、筑紫での略奪に切り替えたと思います。日本側はそれを制止できなかった。敗戦国の悲哀です。日本書紀にその記事がでていないのは、唐に朝貢したときの忖度とあまりに屈辱的だったからだと、私、伊藤は面ます。
日本側にとって幸運だったとのは、今回の逮捕目的である、余豊璋=藤原鎌足が、すでに死亡していたことです。(669年)息子の不比等をはじめ一族は行方不明。また中大兄皇子=天智天皇であることは、筑紫についてから知ったと思います。捕虜たちも知らなかったと思います。即位したのは668年だから。しかも郭務棕は、天皇(国王)逮捕までの権限は与えられていなかったでしょうから(国王逮捕は宣戦布告を意味すると思います)改めて皇帝の判断を求めることになったと思います。そうこうするうちに天智天皇も死んでしまいます(671年)郭務棕は、失敗しました。彼はむなしく帰途につきました。(おそらく百済?本国に召還されたかも)郭務棕のその後の消息は、わかっていません。(補足説明続きます)
(以上、伊藤睦月筆)