「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっていた。
伊藤睦月です。今更なんですが、実は「日本考古学会」の中では、現時点では、「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっている。この一点だけを紹介する。そして小林恵子説は、本来「考古学」の問題を「歴史学(文献史学)」の問題として、論じようとしたが、成功しているとはいいがたい、というか、無理がある。考古学の問題は考古学で解決すべき問題。小林氏の立論は土台から間違っている、しかし、仮説としては否定しない、と私、伊藤はあえて断言します。
1)「騎馬民族王朝征服説」は、東大系の考古学者、江上波夫(1906年-2002年)により、提唱され、大変評判になった。戦後歴史ブームの一端を担った。
2)江上説の発表後、日本考古学会のほぼ全員の研究者は、それぞれの理由で、反対を表明したが、江上は、一般向けのPR活動を積極的に展開し、学会は否定しているので、世間一般では、「多数説扱いになる」という、ある種の「ねじれ現象」が発生した。
3)日本考古学会を代表する形で、江上に私淑していた関西系学者の佐原眞(1932-2002、当時奈良国立文化財研究所研究指導部長、吉野ケ里遺跡発掘チームのリーダー、生涯、邪馬台国畿内論者だった)が、江上と論争し、ついに江上の口から、「『騎馬民族』『征服説』は、11世紀の契丹帝国の研究をした、ドイツの歴史学者が唱えた説、コンセプトで自分の説ではない、との発言を引き出した。その対談の様子は、江上本人の了解のもと、『騎馬民族は来た!?来ない?!』1990年(小学館)という本にまとめられた。学会側としたら、これで、「騎馬民族征服説」は提唱者自ら否定した、問題解決、となるはずだった。
4)しかし、その後も、江上は、一般向けのPRを辞めず、1991年に文化勲章を受章すると、「これで騎馬民族王朝征服説」は国家公認の学説となった(佐原による)」と公言するなど、「ねじれ現象」は続くことになる。
5)以上を踏まえ、佐原眞は、「騎馬民族征服説」への批判、反論をまとめた、『騎馬民族は来なかった』(1993年NHKブックス)を発表し、「かつて騎馬民族征服王朝説という仮説があった」と宣言し、学会的にはこれで終わり、ということになっているらしい。
6)伊藤睦月、です。おそらく、この佐原本発表の後、小林恵子が持論を公にしだしたのだろう。それで、日本考古学会はもちろん、日本史学会からも、「黙殺されたものと」、私、伊藤は推測しています。ことの是非は別です。
7)では、小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、随に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない。(当時の学会通説は、「日本の歴史1、2」(中公文庫)にまとめられ、一般人であっても容易に入手できる)
8)思うに、1960年代といえば、小林恵子氏が学生として、研究生として勉強を開始した時期であろう、人は無意識のうちに若いころに刷り込まれた「既成概念に支配される」ものだ。(ケインズ)小林氏も若いころに江上説に感動し、この分野の専門家を志したそうだが、それなら、文献学者でなくて、考古学者を目指すべきだったのだ。結局は60年前の亡霊にとらわれることになった。これは言い過ぎだとは決して思わない。本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。
9)江上説が現在まで一般向けに、生き残っているのは、「騎馬民族」という言葉から醸し出させるエキゾチックなイメージ、手塚治虫(火の鳥大和編)、黒澤明(影武者に出てくる武田騎馬隊)、ハリウッド(ラストサムライ)のイメージ、特に「集団密集隊形で突撃する武田騎馬隊」のイメージは、大河ドラマにおいても繰り返し、日本国民に刷り込まれ、副島先生も各所で批判されている。それと、対談集でもわかるが、論敵の佐原眞をも魅了する、江上の「人間力」にある、と私伊藤は考えます。
10)では、今後どうするか。それは副島先生が各所で発言されているが、「宮内庁管轄の全国の古墳や遺跡、遺物をすべて公開して、伝統的な手法に加え、最新の科学的手法も交え、分析調査すれば」小林説の成否もある程度明らかになるだろう。これは、「政治」の問題だ。
11)「騎馬民族王朝征服説」は戦前のアジア学による騎馬民族研究と、日本国内における「謎の四世紀」の考古学成果を合体させたものであり、戦後世代の研究者がもちえなかったスケール感がある。そして、当時の「歴史暗黒時代:謎の4世紀」の解明に焦点を絞った、江上波夫はクレバーな学者だと思う。文化勲章を受けるだけのことはある。無用に戦線を広げて(紀元前2世紀から8世紀まで)支離滅裂になっている、小林氏とは大違いだ。
12)私が、小林恵子氏に疑問を持ったのは、江上波夫氏との交流の話が出ない、と気づいた時だ。小林氏は若いころに、江上説にふれ、研究者の道を決意したという。それなら、なぜ東大に行って江上の弟子にならない。東大に入れなかったとしても、大学院からなら、まだ入れたかもしれない。実際佐原眞は、京都大学に3回落ちたので、大学院から入ったそうだ。日本考古学会や日本史学会などで接触する機会はいくらでもあったろう。最低でも自著を江上に贈呈していたはずだ。それに対する江上の反応はどうだったのだろう。今に伝えられる江上の人間性からみて、お礼状一つよこさないような、傲慢な、お偉いさんとは思えないのだが。彼女の著書は最初「文芸春秋社」から発刊されている。新聞広告も少なくとも1回はやったはずだ。江上の目に留まらなかったとは思いにくい。業績評価とは直接関係のない、三笠宮との交流をひけらかす前に、江上やほかの有識者との交流実態を教えてもらいたい。いまさらであっても、学会のたこつぼ体質を批判することになってもよいではないか。高齢の身なら、何を畏れることがあろう。
13)正直、私は小林説に関心を失いつつある。今アマゾンで、「小林恵子 日本古代史シリーズ全9巻」を注文中だが、このままでは、届いても、読む前に、「ブックオフ送り」になる可能性が高い。なんか自分がやるせない。
以上、伊藤睦月筆。