「騎馬民族」ではなくて、「騎馬難民」が日本列島に押し寄せた。
伊藤睦月です。所論の繰り返しになるが、
(1)日本列島には、いわゆる「騎馬民族」(馬を取り入れた牧畜民:江上波夫の定義)は来なかった、もしくは非常に少数だった(江原眞ほか学会通説)
※以下は、伊藤の見解(ファンタジー)
(2)しかし、馬及び関連の文化はその担い手である部族、氏族らとともに、後漢末からいわゆる五胡十六国の侵入による、戦乱や殺戮等を逃れるため、大量の「難民」(副島理論)と化し、その一部が朝鮮半島や南西諸島を経由して、日本列島の各地(北部九州、出雲、越前、南西諸島)に流入した。(そのとき、戦闘行為はほとんどなかった、平和裏に流入した、というのが江上説。だから江上は、「騎馬民族征服」は自分の説じゃない、ドイツ人学者の説だと言い訳し、学会から喜ばれた)
(3)「騎馬難民」が日本列島に流入したのは、3世紀(後漢末)から5世紀(隋唐の建国)にわたる約300年間。間に「謎の4世紀」を含んでいる。画期は3回(以下加藤謙吉『渡来氏族の謎』2017年(祥伝社新書)による)
(3)ー1:1回目 4世紀末~5世紀初頭
①367年、高句麗の圧迫を受けた百済から、倭国へ救援要請。倭国、朝鮮出兵の口実を得る。
②369年、倭国と百済の連合軍が、高句麗に勝利。倭国、朝鮮半島南端の「伽耶(任那)」地域を勢力下に置く。
③391年~412年、新羅に侵攻した、倭国=百済連合軍に対し、新羅と同盟した、高句麗の広開土王が激突。これらの影響で、伽耶地方から大量の難民が出て、列島に流入。
④その間、400年頃、高句麗は中国北朝(北魏)に朝貢し、その対抗上413年、倭王讃が南朝(東晋)に朝貢している。
3-(2)2回目:5世紀後半~6世紀初頭
①475年、高句麗は、百済の首都漢城(現ソウル)を襲い、百済王を殺害。熊津(百済が滅亡するまで王都)に遷都。
②478年、倭王武が、南朝(宋)に朝貢し、上表文を提出。502年、宋武帝から、征東大将軍に柵封され、高句麗、新羅・伽耶などと戦ったり、百済に伽耶四郡を割譲するなどして、百済を支援した。その結果朝鮮半島での戦闘などがダラダラ続き、難民の流入が断続的に続いた。
③そのときに、主に近畿に流入した、騎馬技術を身に着けていた、伽耶難民(今来才伎:いまきのてひと)の組織化に成功した、ワカタケル(雄略大王)は、その軍事力をもって、対抗する有力豪族たちを圧倒し、畿内を中心とした「ヤマト政権」を確立した。
3-(3)7世紀後半
①660年 唐・新羅連合軍により、百済滅亡。亡命政権(余豊璋)を支援した、倭国(ヤマト王朝、九州王朝)が、663年、白村江の戦いで惨敗し、九州王朝は消滅、敗残兵とともに、旧百済の遺臣、新羅の圧迫から逃れた、百済全域からの「難民」が、九州北部に押し寄せた。
②662年に、唐により高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島北部からも「難民」が大量に流入した。
③これら難民は、ヤマト王朝により、職能ごとに、氏族単位で組織化され、「帰化人」として、取り込まれた。
④その後は中国本土(唐の全盛期)や朝鮮半島(新羅の統一)における、政情安定化に伴い、難民の流入も落ち着いてきたものと考えられる。
⑤816年に成立した『新撰姓氏録』では、「諸蕃」(渡来系)326氏が登録されており、内訳(出身、出自別)は、漢(中国各王朝)163,百済104、高麗(高句麗)41,新羅9.任那(伽耶諸国)9で中国系が多いが、これは、本人たちの自己申告によるものであろうと、加藤は推測している。
4 伊藤睦月です。小林恵子説のような、ダイナミックな物語を作らなくとも、「帝国ー属国理論」の派生形である、「難民」理論をベースにすれば、「騎馬民族」なるものは、合理的に説明できる、と考える。
5 但し、海外では、傭兵化した難民が、その国を乗っ取ってしまうことが、ときたま、発生する(インドの奴隷王朝、イスラムのマムルーク朝など)ということが発生しているが、我が国の場合、どうだったか、については、結論を保留したい。
以上、伊藤睦月筆