チェルノブイリ膀胱炎は低用量放射線発癌のモデルとなるか

もう 投稿日:2011/12/28 18:46

ひさしぶりの投稿になります。「もう」でございます。 今回は福島の原発事故による放射能汚染で問題になっている低用量放射線被曝による発癌について、危険であるという論拠とされている「チェルノブイリ膀胱炎」について、私は膀胱癌が専門でもあるのでその立場から文献的に考察してみましたのでその結果について報告します。

チェルノブイリ原発の事故後、ウクライナ地方の膀胱癌患者が10万人あたり26人(1986年)から43人(2001年、2005年は50.3人)に増加していることを受けて、膀胱癌増加の原因がウクライナ地方が137セシウムに広範に汚染されていることにより、体内に取り込まれた低レベルの放射性セシウムが濃縮されて尿として排泄される際に、膀胱粘膜に慢性的に癌を惹起させるような刺激を与えた結果ではないか、という仮説に基づいて、日本バイオアッセイ研究センターの福島氏らが164名の前立腺肥大症手術によって得られた膀胱粘膜の変化を、セシウム高暴露地域(5-30Ci/km2)、中間暴露地域(0.5-5.0Ci/Km2)、非暴露地域に分けて組織学的、分子生物学的に比較した結果、高暴露地域、中間暴露地域の順に膀胱癌の前癌病変が疑われるような変化が見られた、という結果からこの特異な炎症性変化をチェルノブイリ膀胱炎と名付けて、低用量放射線被曝のモデルと考えようというものです(1)。2011年9月14日の東京新聞で取り上げられて一般に広く知られる所になりました。

日本でも福島原発の事故後、大量の放射性セシウムが拡散し、土壌や植物に付着したことでそれらが住民の体内に取り込まれて長期暴露の後に発癌の因子になるのではないかという危惧がもたれ、福島県内の母親の母乳や子供の尿からセシウムが検出されるに至って低用量放射線の汚染と被曝にどう対処するべきかが議論されています(2)。

放射能汚染の問題を論ずることは、本来科学的な問題であるはずの事柄でありながら、政治的意味合いが強くなりがちです。それは前にも述べましたが、現実社会においては右端に絶対的安全、左端に絶対的危険が存在する直線上のどこかに区切りをおいてその右側を安全域、左側を危険域として扱わねばならず、安全の基準をどこにおくかによって、区切りを置く位置が右寄りになったり左寄りになったりするに過ぎないからです。右寄りにおいた方が安全基準がきびしいことになるし、左寄りの方が甘い基準になります。

放射線は非日常的な物であり、また目に見えない物でもあるので安全基準は厳し目(右寄り)に置かれることが普通でした。しかし現実に事故が起きて厳しい基準のままでは生活できない状態になったので政府が基準を左に動かした所、国民の生命・健康を軽視するのか、損ねるのかと非難轟々の状態になりました。除染をするにしても現実的には予算にも限りがあるので汚染の酷い所を優先してする他ない、或いは除染は諦めて汚染の結果被爆し、健康被害が出る可能性の高い小児や妊婦を長期に疎開させる方が現実的という考えもあります。このような政治的決断にかかわることが関係するので畢竟政治的意味合いが強くなるのだと思います。

放射線被曝と発癌についてはそれなりに知識はありましたが、科学と政治は同じ土俵で語れないため、あまり福島の現状について意見を述べる気にはなりませんでした。しかし今回チェルノブイリ膀胱炎と発癌については、膀胱癌が自分の専門領域でもあることからいくつかの疑問点に分けて少し検討を加えて見る事にしました。

1)チェルノブイリ膀胱炎は低用量放射線被曝による発癌のモデルと言えるか。

これはいきなり結論といえるコメントになりますが、疫学的には有意に低用量放射線発癌の可能性を示したモデルと言えると思います。但し示された事実がそのままセシウムによる汚染で膀胱癌が増加したという仮説を裏付けていることにはならないことを以下に考察します。

2)チェルノブイリ膀胱炎は放射性セシウムによって起こされたと言えるか。

直接の因果関係を示す証拠は何もありません。膀胱炎発現の頻度と汚染地域の濃度が3段階の比較で一致していたに過ぎません。患者の尿中のセシウム濃度も汚染濃度に比例して多かったというデータは示されています(1)(3)。しかし全く別の原因でこのような組織変化がおきていた可能性は否定できません。低用量慢性被曝という実験に向かない仮説を証明する限界といえるかも知れません。今後10年以上経過して福島県の高度汚染地域(浪江町や飯館村が同等の土壌汚染地域と言える)に住む人達から同様の膀胱組織変化が得られたとすれば、低濃度放射線被曝という条件が一致することになるのでこの仮説を支持することになるでしょう。

3)特異な膀胱炎の所見はそもそも前癌病変なのか。

膀胱癌には前立腺癌のような前癌病変(前立腺癌のpinと呼ばれる病変も厳密には前癌病変とは言えませんが)の明確な既定はありません。論文で上皮内癌(CIS)として述べられている所見は前癌病変ではなく、臨床では治療対象の癌として扱う所見と思われます。従ってたまたま取ったサンプルにCISがあったものを前癌病変と言うのか癌があるというのか意見が別れるところでしょう。(臨床的にはまだ癌と認識されていなかったはずです)他にも分子生物学的に細胞増殖を示すki-67、PCNA、CyclinD1や上皮増殖因子受容体の下流に位置するMAPキナーゼなどが活性化されている所見が組織化学的に病変部で高いことが示されています。これらは前癌病変としての傍証ではありますが、これから必ず癌になる、或いはこれで癌と証明できるというものではありません。

放射線治療に用いる高用量放射線はDNAの直接障害を引き起こします。この直接障害が新たな癌化にも関与するだろうと言われているのですが、細胞の癌化とはDNA自体の変異によるものだけではなく、DNAには変化がなくても遺伝子の修飾(メチル化など)によって発現が変化することで多段階的に癌化することが解ってきています。人間の遺伝子解析が終了しても癌が解決しないのは、遺伝子の無限ともいえる修飾の具合によって癌が多段階的に起こっていることが遺伝子解析後の時代(この10年のepigenetic era)において明らかになったことによります。逆に言うと癌化の過程というのは種々の前癌状態と思われるものの傍証を積み上げてゆくことによってしか証明できないことを意味しています(4)(5)。その点でこの研究の方向性は間違ったものではないと言えます。

4)サンプリングに偏りはないのか。

男性の高齢者に見られる前立腺肥大症の患者のサンプルから取った膀胱粘膜(しかも肥大症手術で得られた前立腺腺腫に付いている内尿道口の近くの粘膜)のみで検討していることは、この種の検討では限界があるとは言ってもサンプリングに偏りがあると言わざるを得ません。他の死因で亡くなった患者さんの剖検で得られた膀胱粘膜にも同様の所見が散見されないかといった検討も必要であると思います(6)。

5)今後の検討課題

日本の膀胱癌患者の罹患率は概ね10万人あたり10人位で、欧米の白人はその倍で20人位と言われています。東ロシアに位置するアルハンゲリスク地方におけるコンピューターを用いた癌登録の集積結果(1993-2001)の報告(7)では、膀胱癌の発生率(new case)は人口10万人あたり13.4人と報告されています。ウクライナにおける膀胱癌の罹患率が2005年には本当に50.3人に増加しているとすれば、それはアルハンゲリスクにおける胃癌の発生率に等しい、頻度の高い癌に膀胱癌がなっていることになり、かなり問題になるはずです。この高頻度になった膀胱癌の組織所見、腫瘍以外の部の膀胱粘膜所見がチェルノブイリ膀胱炎を背景としたものであるという報告はまだありませんが、そういった報告がなされて初めてチェルノブイリ膀胱炎が低用量放射線被曝から癌になる前癌病変モデルとして科学的に認知されるものになると思われます。

ということで、私は低用量放射線被曝については未だ確定的な発癌の証明はなされていないけれども、上記のような報告が今後集積してゆけばより明らかな結論が出せるであろうと考えています。

参 考
(1) Romanenko A., et al. Urinary bladder carcinogenesis induced by chronic exposure to persistent low-dose ionizing radiation after Chernobyl accident. Carcinogenesis vol 30 (11) 1821-31. 2009.
(2) 児玉龍彦. チェルノブイリ膀胱炎、長期のセシウム137低用量被曝の危険性 医学のあゆみ vol 238(4) 355-360. 2011.
(3) Romanenko A. et al. DNA damage repair in bladder urothelium after the Chernobyl accident in Ukraine. J Urol. vol 168, 973-77. 2002.
(4) Trosko JE., et al. Low-dose ionizing radiation: induction of differential intracellular signalling posiibly affecting intercellular communication. Radiat Environ Biophys vol 44 3-9. 2005.
(5) Trosko JE., et al. The emperor wears no clothes in the field of carcinogen risk assessment: ignored concepts in cancer risk assessment. Mutagenesis vol. 20 (2) 81-92. 2005.
(6) Jargin AV., comment to (3) J Urol. vol 177, 794-95. 2007.及び私見
(7) Vaktskjold A. et al. Cancer incidence in Arkhangelskaja Oblast in northwestern Russia. The Arkhangelsk cancer registry. BMC cancer vol. 5:82. 2005.
~以上~