「痴呆の治し方」

投稿日:2010/08/06 08:34

「心に青雲」から貼り付けます。

(転載貼り付け開始)

2010年08月05から06日 | 医療問題
「痴呆の治し方」
 
《1》昨日の本ブログで、城内進支部長の支部機関誌の最新号(172号)の文章を紹介した。「武道に学ぶ健康と護身」講座を開催し、その一般参加者の一人が痴呆症状があるというので、一緒に体を動かし、帰り際に、足先、指先の簡単な練習を教えて、これを家で毎日5分ほど続けるとよいと教えた、とあった。さらに、同じように痴呆症に関して、永く寝たきりで、息子も娘の顔も分からなくなった身内の人を相手に、論理的な働きかけをしたところ、突然覚醒してその後は前のように普通の会話ができるようになり、身近で介護していた人は劇的な出来事に驚いていた、とも記されていた。

 この件に関して、私はボケて相手の言う事もわからなくなった人に、どうやって痴呆が良くなる運動を教えたのだろうか、と不思議に思った。空手をやっている者であれば、ボケ予防法は理解でき、自分で実践できて当たり前だが、ボケた人にどう分からせるか、それを城内さんにメールで質問した。その回答が丁寧に送られてきたので、概略を紹介する。

 まず、「武道に学ぶ健康と護身」講座で、空手をやっていない一般の参加者のなかに軽い痴呆の人がい、その方にどう働きかけたかである。

 年齢は80歳の女性。3歳下の妹さんがいてこの妹さんが今回の講座に参加し、2回目にお姉さんを連れてきた。軽い痴呆の気があり、時々ふらっと出かけてしまいどこにいるかわからなくなるということであった。「見たところ80歳にしては姿勢もよく言葉つかいもしっかりしているので、痴呆症とはいえ、まだ完全にボケてしまっているのではないとわかります。またこうして外に出歩いてくるだけの前向きな認識を持っているということがよくわかりました」という。

 どういう運動をしたかというと、これは跳びながらやるのだが、まず左足をだし、跳んで両足を開いて着地し、次に右足で跳んでまた両足で着地、ということをくり返すのである。子どもの遊びにある「けんけん、パ」に似ている。この運動が痴呆の人にはまったくできなかった。そこで「イチで左足をだして、ニで両足を開いて、サンでに右足を出して、ヨンでまた両足を開いてというように、それこそ手取り足取りで足を動かすようにする。できないながらも何とか足を動かそうとすること(この過程が大事)を5分ほどつづけました。だめだ、できないというのを、大丈夫!、ほらできたでしょ!と声をかけながら」一緒になって指導したという。

 足を使ってタオルをひき寄せる運動では、当該女性は足先に力が入らない(神経の働きがよわい)ためにタオルは足元に集まらない。足先をみるといかにも神経が集まっていない力のない足先をしていたそうだ。普通ならここで処置なしとなるのだろうが、城内さんはここでどうすべきかを考え、〈生命の歴史〉に尋ねるなら、脳細胞は手足を使うためにできたという一般論から答えを導きだす。そして脳細胞は脳細胞として単独で鍛えることはできないのであり、脳細胞を鍛えるには、手足使わせることだとして実践する。

 「痴呆は神経の親玉である脳細胞が正常に機能しない状態であるから、要は正常に機能するように働きかけなければなりません。脳細動は脳細胞としては鍛えることはできないのであり、これは手足を脳細胞が鍛えられるように使うしかありません。ということで、まずは神経が通わなかった足の指を動かすこと、指を上下に動かすことをぜひ続けるように話したのでした。手も護身のときに教えた相手につかまれた手を逆に取るという護身の手の使い方をやるとよいと話しました。本当は裸足でのアスファルト歩きがよいのですが、ただ裸足で歩けばよいといったところで1回はやるでしょうが、まずは続かないと思うのでやめておきました。」

 これが第一の、軽い痴呆の人へのアドバイスである。次にもっと重態の、永く寝たきりで、息子も娘の顔も分からなくなったお婆さんを相手に働きかけたありかたはどうだったのか。「70に近くなってから、足の具合が悪くなるに従って出歩くことが少なくなり、そのうちたまに出かけると帰りがわからなくという状態になり、家族が、危ないからということで、お婆さんが外に出ることを嫌がるようになり、外に出さなくしてしまいました。ここから一気にボケが進行して行きました。」

 城内さんが対面してみると、その状態は予想どおりますます悪く、家族の顔もわからなくなり、食事をしたことすらわからず、ものも言えない、ただ寝たきりの状態だったという。そのとき城内さんは「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という原則(一般論)をもとに働きかけようとする。具体的には、いかに神経に働きかけるかである。

 「まずは、締め切った部屋の窓を開けて新鮮な外気を取り入れ、布団を敷き替え、体を洗ってやりました。次は家族に話しかけるようにさせ、私は萎えた両足を丁寧にさすり(血行を良くすると共に神経が通うようにと)これはその日2時間以上おこないました。この日は変化なし。

 次の日起きると同時に窓を開け、体を拭いて、それから又話しかけながら足をさする。午前中、田舎の親戚回りをするというので、お婆さんを背負って一緒に外に連れだすことにしました。何軒かの親戚を回ったときには、物言わぬお婆さんに親戚の人たちが「連れてきてもらってよかったね」とか「まー、おぶってもらって」とかいろいろと話しかけてくれたのです。

 突然の変化が起きたのはこの後でした。いったん家に帰って昼食をとり、一休みしたあと、お祭りでやる歌舞伎を見に村の神社に行こうということになりました。実家から神社までは30分くらいかかるので、周りの人はお婆さんは置いていくように言ったのですが、とにかく反映をさせることが必要と考え、お婆さんをおんぶして出かけたのです。

 賑やかな人通り、祭りの囃子、木々を渡る風の中、もう少しで歌舞伎の会場に着こうかとする坂道を上っていた時、これまで一言もしゃべることがなかったお婆さんが、突然に「ススムさん」と声をかけてきたのでした。

 一緒に歩いた家族がおどろき声をかけると、お婆さんは家族の名前を言い返し、これから向かう先に何があるのかもはっきり覚えていました。そのあとは、特に親しい親戚の所を回ってきました。みな一様に意識が戻ったことに驚いていました。
 そのあとはというと元の生活に戻されてしまい、1年半後の2月に亡くなりました。」という次第である。

 この城内氏の一般論を踏まえた創意工夫による働きかけは、見事の一言である。これこそが一般論を導きの糸とした具体への取り組みである、とみなさんにぜひ分かっていただきたい。

 私はとりわけ、病人の寝たきりになっている部屋の窓を開け放った、という最初の行動に感動している。むろん、最初の講習会での軽い痴呆の人への働きかけも、脳とは何か、神経とは何かの一般論を媒介にしての働きかけで、城内さんの言う事がまだわかる軽症のお婆さんへのすばらしい適応であった。

 看護婦ならこれをやって当たり前ではあるが、ナイチンゲールと薄井担子先生の理論を学んでいない二流の看護婦には、できない芸当であろう。城内さんが説いている最も大事なところは、「痴呆は神経の親玉である脳細胞が正常に機能しない状態であるから、要は正常に機能するように働きかけなければなりません。脳細動は脳細胞としては鍛えることはできないのであり、これは手足を脳細胞が鍛えられるように使うしかありません」ということである。また手指足指を意図的に動かせない重態の痴呆の人には、脳細胞の本来的機能である反映を蘇らせることで、脳を「正常に機能するように働きかけた」ということなのである。

 これは痴呆になっている人への働きかけであるが、同じことは知識秀才に育ってしまった「若ボケ」の人間にも当てはまることなのである。また、この神経の使い方が空手の達人への道でもあると思う。

《2》私のブログを読んだ人からメールが来て、自分の祖母も痴呆が進んだが、それでも働きかけをすれば治るでしょうか、と問うてきた。祖母は施設に入れてからいっそう衰えてしまった。自分で立ち上がれない、声が小さくなった、ご飯をたくさん食べられなくなった、トイレで用がたせなくなった、弱々しくなってしまった、と。もし、自分の祖母も城内さんのように働きかければ、良くなるでしょうか。足をさする・連れ出す、以外になにか私でもできることはあるでしょうか? と聞いてきた。

 せっかくなので、城内さんがなさった指導以外にいくつかアイデアをお伝えしたけれど、なぜ彼に医者にもできなかった芸当が可能だったかを考えてほしい。ただ「すごい、すごい」と感嘆し、自分の身内も治したいと思うのは人情だから、それはそれで結構であるが、なぜ城内さんにそれが成功したか、考えついたかを知っていただきたいと思って、この続編を書いている。

 城内さんご自身も書いているが、寝たきりになっている痴呆の人を覚醒させるには、「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という一般論をもとに働きかけた、とある。これである。くり返し書くが「一般論」を導きの糸にしたのだ。

 別言すれば、これが看護である。看護を学問として措定された薄井担子先生は、その本質を定義して「看護とは、生命力の消耗を最小にするように生活過程をととのえる」とされている。この一般論が、現実の個々の看護場面でどうすることが看護になるかが、導きの糸となるのだ。

 これを別角度から、空手で説いてみよう。空手を教える場合、白帯の突きがおかしいと思った指導者は、パッと見たままにその突きの形を注意してしまう。まずいところを直して何が悪いという声がありそうだが、それは弁証法的な指導とは言えない。

 パッと見て、突きの手首が例えば右に曲がっているとすれば、その曲がりを指摘して正常のまっすぐに直したくなるものである。それが正しい形だからだ。ところがその曲がった突きを直したと思ったら、今度は先ほどまでの突きの形を直す前は正常だった足の形が崩れるという不思議が起きる。これを称して「モグラ叩き」という。例えば四方突蹴りをやっているときに、突きの形を直そうとすると、突きや蹴りは空手全体のなかでの突きなり蹴りであるから、四方突蹴り全体の中の部分であるものを直そうとすることになる。だから、そのおかしな部分を直したとしても、ほかの立ち方とか引き手とかが歪むのだ。

 こういうことを、わが流派の最高指導者は「技を見て、空手を見ていないからだ」と説かれる。全体の歪みが、ある部分(例えば突きの形)へと量質転化して現象していることが見てとれていない。だから空手の技を指導する場合に、空手とは何かの一般論から教えなければならない。うっかりすると、空手を見ずに技だけを見てしまう間違いをおかす。ダメな指導者ほど全体を見ずに、部分の技を見てしまう。

 現在、大流行のカウンセラーなどはこの手であろう。であるからまじめにカウンセラーの勉強をした人ほど、全体を見ずに部分を見てしまう「力」がついてしまうのだ。これを、「高校の先生が、生徒を高校生から見ずに、教科書から見るようなもの」とも、また「指を見て、それを手とは言わない。手は手としてみなければならない」とも説かれていた。

 さて、ひるがえって、痴呆の直し方に話を戻すと、多くの医療機関とか老人ホームとかでは、空手の指導でいえば「空手を見ずに技だけを見てしまう間違い」を冒しているのである。だから治らない。音楽にあわせてタンバリンを叩かせてみて、わずかに笑ったから、効果があるんじゃなかろうか、などと言うのみ。これはモグラ叩きにしかならない。何と言っても、痴呆を治そうという医療者に、人間とは何かと一般論(看護とは何かに匹敵する一般論)が欠如しているからである。

 ところがさすがに城内さんは、空手指導歴ン十年の大ベテランであり、また南郷学派のゼミで弁証法や学問を長年学んできている人だけあって、すべて一般論を媒介に対象に働きかける事ができているのである。

 それにご自身も、一般論を信じて実践して医者も匙を投げる病気を治してみせたから、一般論の大事性をよく知悉しておられるのだ。その一般論を把持してのアイデアだから、痴呆の人を目覚めさせる鮮やかな手腕を見せるのである。だから部屋のベッドに寝たきりのお婆さんに、まず部屋の窓を開け放って新鮮な陽光やそよ風を入れ、お婆さんに反映させることをしたのである。人間の脳細胞と神経が正常に運動できる条件を創った手際は見事であった。

 もし、痴呆のお婆さんに口がきけたら、窓をあけて新鮮な空気を吸いたい、明るいお日様の光を浴びたい、誰か外へ散歩に連れていって、と言ったであろう。それが人間とは何かを知ればこそ、もの言えぬ老婆のココロを読み取ることができたのであった。ところが一般の庶民は、人間とはがまるでわかっていないから、徘徊する老人は家に閉じこめておくにしくはない、としてしまう。老人ホームでも同様である。できるだけ動かさないように、転倒なんかしないように車椅子に乗せ、箸よりスプーンで飯を食わせ、介護者の手がかからないように、としかしないのだ。

 ここで言う「人間とは何か」を、城内さんの治された実践にあてはめて言うならば、人間は生命体であるから太陽の光が必要であり、自然の清浄な空気も必要なのであり、また人間は社会的実在であるから、部屋に閉じこもってじっとしているのは不自然で、人と触れ合い、会話をするものなのだ。だからお婆さんが親戚の人たちにたくさん「話しかけられた」のが正解であった。

 けれど、大事なことを念をおしておきたいが、一般論を導きの糸として城内さんが成功したからとて、受験秀才がやるように一般論を知識として覚えたのでは、対象の構造を把握したり、現実に「論理的な働きかけ」をしたりすることはできはしない。城内さんがご自身の病を治癒させる過程で実体で味わわれたように、一般論の再措定がなされ、一般論が知識レベルではなく、いわば血肉化していなければ、一般論を役立てることはできないのである。

 先に7月26~31日の間、本ブログで「学問とは何か」を連載した。むずかしいヘーゲル哲学を扱ったかのように思われているかもしれないが、身近な例でいえば、この人間とはいかなる存在なのかの学問成果を踏まえて痴呆の人を覚醒させたように、ヘーゲルが構築したドイツ観念論哲学を導きの糸としたからこそ、さまざまな個別科学を開花させたのだと理解していただけたらと思う。

 現在の世界では、周知のように学問は衰退している。部分のまた部分の研究でしかない小惑星探査機を飛ばして喝采を浴びるなんぞが、まさに学問の衰退を象徴している。衰退したのは、米英を根拠地としているユダヤ勢力が世界を支配しているからである。世界中が金儲けに役立つ技術開発につながる「研究」ばかりさせられている。ユダヤ=米英の支配下で科学研究がなされ、教育もさせられているからだ。さっそく「はやぶさ」のエンジンがアメリカと共同で実用化がさらに進められ、売っていこうと企図されているではないか。だから学問がわからなくなった。

 それゆえ痴呆症についても、学問から解く科学者も医療者もいない。全体から切り離した部分にばかり着目して、研究一途である。痴呆を治す(?)薬の開発ばかりが医者の仕事になっている。それで痴呆が治せないどころか、人間の尊厳を踏みにじり、かえって薬の副作用で苦しみ、死期を早める人が続出している。そんなことではない、病室の窓を開け放って、新鮮な空気と陽光を患者に反映させれば良いのだ。しかし、そんなことを痴呆治療の原則にしてしまうと、病院も老人施設も儲からず、木っ端役人が権益を握って楽をすることができなくなる。

(転載貼り付け終了)