番外編の投稿:重掲[1694]の続き

相田 (Wired) 投稿日:2014/11/19 22:53

 突然お邪魔します。相田といいます。

 以下の書き込みは、重掲[1694]で書いていた原子力開発に関する論考の続きです。今回の内容は原子力に全く関係しないため、番外編としてこちらに投稿します。

 この話を投稿するべきか、私は相当に悩みましたが、恥を忍んで載せてみます。下に記すように、今回の内容は実は、西村肇先生が「現代化学」という雑誌に書かれた紹介文の丸々引き写しだからです。それでも、南部陽一郎(なんぶよういちろう)の生様(いきざま)を、物理に関係ない方々に、何とかわかりやすく説明するべく纏めてみました。

 プロの方からは突っ込みの嵐だと思いますが、もっと正確に、わかりやすく説明できる方がおられたら、ぜひとも御指摘頂きたく・・・・

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの光と影

1.8 〔番外編〕南部陽一郎、朝永門下生のキリスト 

以下の章では湯川のライバルとして名高い朝永にゆかりのある人物にスポットをあてる。最初に南部陽一郎(なんぶよういちろう)という学者についてふれる。ここでの南部の話は、原子力開発とはほとんど関係のない、はっきり言って余談である。本論考は別に、私の素粒子物理学の薀蓄(うんちく)を述べるのが目的ではなく、そのような資格も私には全くないことも自覚している。しかし、日本の素粒子物理の歴史に触れるからには、南部の話はどうしても入れたいと、自分の不勉強を重々承知の上で、私は思った。

 さらにここでの話は、西村肇先生が「現代化学」という雑誌で書かれた南部の紹介文「南部陽一郎の独創性の秘密を探る(1)(2)(3)」からの、完全な引き写しであることを素直に告白する。ただし、西村先生の話は、基本的にはプロの研究者に向けて書かれた内容であり、一般の方々にはやはりハードルが高いと私には思える。

南部はまだ存命であり、長年暮らしたシカゴの自宅を引き払って、今では大阪豊中で静かに暮らしているらしい。大変失礼な言い方ではあるが、南部がまだ健在なうちに(既に90歳を越えている)、学問の世界で彼がどのような位置づけにある人なのかを、一般の方々にも少しでも理解して頂ければと、この欄を加えた。

 ちなみに私は素粒子物理学の基礎となる「場の量子論(ばのりょうしろん)」については、全く理解できていないことを告白しておく。マルクスの「資本論」を読んで「場の量子論」を勉強したりすると、とてもではないが、仕事の合間にこのような論考を纏める時間など、自分には無くなってしまう。それを考えると武谷、坂田等が20代でこれらの知見に精通していたことは、誠に偉大であると素直に思う。

 さて、私が南部の名前を知ったのは、バブルが弾けた後の私が社会人になりたての時期に、アメリカ留学から戻ったとある研究者の方と知り合った時である。その方から私は、「シカゴ大学に、素粒子物理に関するカリスマ的な実力と存在感を持つ南部という日本人学者がいるが、日本では一般に全く名前が知られていない」、という話を聞いた。その方はシカゴで、南部と会って話したことがあるとも言われた。私がその後に南部の話に触れたのは、西村先生が副島先生との幻の対談の中で、南部について「ものすごい実力を持つ学者だ」とコメントされていたのを読んだ時で、やはりそうなのかと私は思った。

 2008年に南部は、益川、小林と3名同時にノーベル物理学賞を受賞したことから、一般にも多少はその名が知られるようになった。ノーベル賞受賞時には益川氏のインパクトが強すぎて、マスコミの南部の扱いは地味なものであった。しかしながら、物理学者の間では3人の中では南部への評価がダントツに高い。他の二人は南部にノーベル賞を渡すためのサクラというか、引き立て役の印象が強い。あまり知られていないが、あの時のノーベル賞の賞金は、半分を南部が受け取り、残りの1/4ずつを益川、小林で分け合っている。益川、小林の発見は二人の共同作業によることが理由であるが、南部と他の二人では研究のレベルが違うことを、ノーベル財団がはっきり認めているともいえる。

実は南部は武谷三男との関係も非常に深く、武谷三段階論の有力な支持者でもある。南部は自身の回顧録やインタビューの中で、「自分が物理モデルを考える際には武谷の三段階論を参考にしている」と、度々言及している。そのようなこともあり、以下の話は武谷に関するスピンオフ的な話として、読んでいただければと思う。

南部の生まれは東京であるが、幼少時に関東大震災に遭遇した一家が、父親の故郷の福井県に疎開したことで、東大入学まで南部は福井で過ごしている。南部の東大時代は太平洋戦争の真っただ中であったため、1年間早く大学を卒業させられた南部は、終戦まで陸軍に入隊して過ごした経歴を持つ。終戦後の荒れ果てた環境で東大に戻った南部は、大学の研究室に泊まり込みながら、多くの先輩や仲間と共に研究活動に没頭したという。

東大には京大と違って、素粒子物理学に詳しい教授は非常に少なく、南部は東大の主流であった統計物理学や固体物理学を学んでいた。しかし、友人の木庭二郎(こばじろう)が理研の朝永の弟子となり素粒子物理学を専攻したことから、南部も一緒に朝永の勉強会に参加することになった。

当時は理研に所属していた武谷が、湯川の弟子の一人で東大に移って来た、素粒子論グループの世話役でもある中村誠太郎(なかむらせいたろう)に会うために、頻繁に東大を訪れていたという。武谷と南部は次第に懇意となり、議論を交わすこともしばしばあったらしい。そこで武谷の哲学を繰り返し聞かされた南部は、否応なく武谷の三段階論を受け入れることになったと、後のインタビューでコメントしている。但し、南部が武谷から受け入れたのは三段階論の方法論のみであり、左翼思想についての関心は特に無かったらしい。

武谷については好意的な南部であるが、研究に左翼思想を頻繁に持ち込む坂田昌一(さかたしょういち)には厳しいコメントも残している。南部はアメリカでインタビューを受けた際に坂田について触れている。そこで南部は、晩年の坂田が研究を止めてしまい政治活動にのめり込んだ結果として、日本の素粒子物理学は坂田に批判的な関東を中心とするグループと、坂田を擁護する関西・西日本グループの東西に2分されてしまったと述べている。南部自身は武谷流の「実体」を重視する哲学を持っていたのだが、「自分は東大出身であったためか、何故か関東グループの一員とみなされてしまった」、ということである。
 
ここで南部の師ともいえる朝永振一郎の研究について触れる。朝永は終戦後には活動の場を理研から東京文理科大(後の東京教育大学で現在は筑波大学に改組される)に移しつつあった。

 朝永の研究課題は、マックスウェルの電磁場方程式と量子力学を組み合わせた「量子電磁気学」である。当時、マックスウェル方程式により電子等の電荷を持つ素粒子を扱う場合には、量子力学との間で深刻な矛盾が存在していた。問題をごく簡単に説明すると、電子が有する電磁気エネルギーは、電子からの距離rに対して1/rで減少するのだが、電子は大きさを持たない「点」であるため、極限まで電子の中心に近い領域では、電子1個の持つエネルギーが計算上は無限大に増加してしまうのである。

 また電子は、それ自体が周囲に光を放出して他の電子と、場合によっては自分自身ともエネルギーのやり取りを行う。これを電子の自己相互作用(じこそうごさよう)と呼ぶ。素粒子の持つエネルギーは、アインシュタインの相対性理論から導かれるE=mc2の関係式から、その一部が質量mに転化される場合があるのだが、電子の自己相互作用のエネルギー変化を厳密に積分計算すると、電子の質量もまた無限大となってしまうという、これまた厄介な結果が待ち受けていた。電子1個の持つエネルギーや質量が無限大になることなど、現実の世界ではあり得ないため、理論に矛盾があることは明らかであった。

 この電磁気学と量子力学を組み合わせた際に現れる、積分の無限大を解決するために考えられた方法が「くりこみ」である。「くりこみ」の厳密な内容については、私の今の理解では満足いく説明は不可能であるため、ここでは話を端折って進める。一つの例えでは「くりこみ」とは、『電子の中心のエネルギーが無限大に増加するのであれば、電子の質量は逆に「負の無限大」となるように積分の項を再構成して、正負の無限大を足し合わせて有限の値を得ること』、であるらしい。

 こんな説明では「一体なんだそれは!?」と誰もが怒ると推測するが、ここではこの内容で勘弁して頂きたい。積分内部の無限大となる項を上手に整理して、計算結果を有限の値に戻してしまう数学的な操作である。説明は簡単であるが、単なるその場しのぎの計算テクニックではなく、数式に対する深い物理的な理解に裏打ちされた理論である。

 「くりこみ」の可能性については、朝永以前からアメリカの物理学者達によりしばしば提案がなされていたそうである。「無限大の発散」の問題について初めて指摘したのは、後にアメリカの原爆開発のリーダーとして活躍するオッペンハイマーである。1937年にオッペンハイマーの弟子のダンコフという物理学者は、1個の電子が発生する「自己相互作用」の効果について逐一仮定、計算して、くりこみの実現を狙ったが、結局は無限大を解消出来ずに終わった。

 一方で電磁場を量子化する理論式は1930年代に、コペンハーゲンのハイゼンベルクやパウリ、ディラック等により体系化されていたが、朝永はこの理論式がアインシュタインの相対性理論との対応ができていないことが問題だと推測し、戦争中に理論の再検討を行い、「超多時間理論」という洗練された理論を編み出した。「超多時間理論」のわかりやすい説明は私には不可能なのだが、この過程では無限大となる積分項の分類と、数学的な振る舞いの詳細な検討が、朝永により行われたようである。

 戦後に東京文理大学で、弟子たちとの物理の勉強会を再開した朝永は、残された「無限大の発散」の難題を解決するべく議論を進めていった。当時、湯川の下を離れて名大に移った坂田から、「C中間子」という仮想的な粒子を導入することで、発散が解消できるとの報告がなされた。坂田の話に当初は半信半疑であった朝永であったが、弟子たちの計算によりC中間子の効果で、無限大の積分項の一部が解消することが示された。この経験から朝永は「くりこみ」の有効性に注目し始めたという。

 折しも1947年にアメリカより一つのニュースがもたらされた。ラムとレジャフォードにより、水素原子中の特定の軌道の電子について最新の測定技術でエネルギーを調べた結果、ディラック方程式から導かれる理論値から約 1000 MHz のエネルギー差があることがわかった。この電子のエネルギーのずれは「ラムシフト」と呼ばれたが、その理由としては、電子の電磁気エネルギーが自分自体に影響する「自己相互作用」の影響と予想された。

 ラムシフトを理論計算で導くには、積分で発散を生じない量子電磁気学的なモデルが必要となるため、アメリカ中の物理学者によりラムシフトの導出が進められた。この知らせを聞いた朝永グループは、それまでの研究から完成した「くりこみ論」を用いて、ラムシフトの計算に取組み、正確な値を得ることに成功し、後年の朝永のノーベル賞受賞に繋がった、とされる。

 ここまでの話が一般に語られている、朝永のノーベル賞受賞に至るまでの所謂「顕教(けんきょう)」であるのだが、その裏でほとんど注目されていない一つの事実があることを、西村肇先生は指摘されている。

 朝永グループによるラムシフトの値を1076MHzと計算した論文は、1949年4月に出版された日本の英文雑誌「Progress of Theoretical Particle Physics」に掲載された。この論文誌(略称PTP)は、戦後に湯川が日本の理論物理学のレベル向上を目指して、半ば自費出版の形で始めた雑誌であり、素粒子論グループの研究成果の多くはPTPに発表されている。しかし朝永グループの論文発表の3か月前のPTPの1月号には、ラムシフトの値を1019MHzと計算で導いた論文が既に掲載されているのである。論文の投稿者は南部陽一郎である。

 文理大の勉強会では朝永グループの一員として計算に協力することは無く、後ろの方でただ講義を黙って聞き続けていた南部であるが、自ら一人で朝永グループと別にラムシフトの計算に取り組んでいたのである。驚くべきことに朝永論文では、朝永自身を含む5人以上で計算を分担したのに対し、南部の計算はたった一人だけ、にもかかわらず、南部は朝永グループよりも先にラムシフトの値を導き出し、論文に纏め上げている。論文の投稿日は南部の方が1ケ月早い。

(つづく)