村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その2)

相田英男 投稿日:2021/05/10 21:38

4. レトリック(修辞法)の魔術師、村上陽一郎

 村上陽一郎は多作家である。数十冊もの著書を執筆し、今でも毎日新聞に書評を載せている。学術関係者でない一般の人々も、村上の文章に一度は触れた機会があるだろう。大学入試の国語の例題文にも、毎年どこかで、村上の文章が使われているらしい。

 しかし、私は問うが、村上の文書を読んで、その意味がスラスラとわかる一般人が、どれ程いるだろうか?はっきり言って、村上の文章は難解である。今回あらためて、村上のいくつかの論考を読んだ私は、レトリック(修辞法)の存在を強く意識した。村上の文章が難解なのは、内容が高度であるからでは、実は無い。レトリックが多用されているからである。

 具体的には、一般人が誰も知らない、海外の作家や哲学者の名前を、文章中に唐突に入れる、とか、日本語で書くべき用語を、敢えてカタカナの英語(もしくはラテン語)で書く、とか、やたらと長い文節を主語にする、もしくは、文章の途中に長い文節の注釈を入れる、とか、などの、技巧を多用するのが、村上の文章の大きな特徴だ。レトリックを使う技術は、日本の文筆家の中でも、村上は、トップスリーにランクされるのではなかろうか?私が読んだ文筆家では、文句なしに村上がNo.1である。

 レトリックとは、文章を飾るための技術である。文章の細部を “御化粧” する事で、あたかも、内容が深く、高級そうな雰囲気を醸し出すのが、その目的だ。要するに、内容の薄い文章を立派に見せ掛けるために、レトリックは使われるのだ。

 私が論説文を読む際には、これまでレトリックを意識した事はほとんど無い。筆者の主張がどんな内容なのかを理解できれば、私にとってはそれで良いからだ。しかし、村上の文章を読む際には、あまりにも多用されるレトリックが気になり、読み進むことが、私にはなかなかできない。学生時代の私が、村上の文章が苦手な理由が、レトリックが多用されることにあると、今になってようやく気付いた。

 私の学生時代の話だが、昔の知り合いに、ピアノが得意なある女の子がいた。その彼女は作曲家のジョージ・ガーシュインの曲が苦手で、あの独特の和音、というか、雰囲気の曲を聴くと気分が悪くなる、と、かねがね言っていた。ある時、彼女を含むグループで、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を聴く機会があったのだが、彼女は途中で「ダメだ、胸やけと目まいがして耐えられない」と言って、部屋を出て行ってしまった。

 私が村上陽一郎の文章を読む時にも、彼女がガーシュインを聴く時と、同じような気分に陥るのがわかる。村上が何を言いたいのか、さっぱり要領を得ないので、論文や著書の最後まで到達する前に、イライラ感が募って、気力が尽きてしまうのだ。今でもそうである。

 しかし、村上の主張を十分に理解しないままだと、私の村上への批判は、ピントのずれた頓珍漢な内容になり、説得力が失われる懸念も大いにある。何とか、あのレトリックだらけの、膨大な村上の論考集を読まずに、村上の主張の概略が理解できないものか、私は知恵を絞った。

 そんな図々しい事が出来るわけがないと、普通は思うだろう。ところが、だ。たまたま目にした、とある海外の学者の論考を読む事で、村上陽一郎のこれまでの主張の概要が (おそらくは、村上の膨大な論考の80%以上に当てはまるであろう、その趣旨が )遂に、私には、明確に、理解できてしまったのだ。

 その内容は、他の方が村上の文章を読み進める際にも、大いに参考になると私には思える。以下はその、レトリックに満ち溢れる、エキゾチック村上流文章(と、どなたかがネットに書いていた)を、一般の方が読み進める際の、手引き書として書いた内容だ。高校生にもお薦めだと思う。大学入試の論説文に、もしも村上の文章が出たならば、俄然有利になることは請け合いだからだ。

5. 村上陽一郎と中山茂

 村上陽一郎は数十冊を越える膨大な著書を出版している。この一連の著作本が、村上の主たる業績といえる。ところが、であるが、意外なことに村上は、博士号を持っていないのだ。その膨大な著作物の一部を抜粋して、博士論文に纏めて提出することなく、村上は研究者としてのキャリアを終えた。博士号を持たずとも、村上は、東大駒場の科学史・科学哲学研究室の教授になり(1986年)、新規に発足した東大先端研究所の所長に迎えられ(1993年)、その後に国際基督教大学の教授(1995年)等を、歴任している。かなり珍しいケースだと思う。

 博士号を取得しなかった理由について村上は、あちこちで言い訳がましい弁解を書いている。学生時代の東大駒場では、科学史の分野で博士号を出せる教授が居なかったから、というのが、その理由らしい。村上以前の科学史の学者達は、物理学や生物学、数学などの専門分野で論文を提出して博士となった後で、科学史に転向した学者が多かった。一方で、東大から海外の大学に留学して、科学史の専門過程で博士論文を書いてPh.Dを取得した学者も、村上の同僚達には多くいる。村上自身も一度、英国の大学に留学する機会があった。だが健康上の理由と、上智大学への助手の席に誘われて、そちらを優先したために留学の機会を失したのだ、と言い訳している。

 ちなみに日本の科学史研究者で、最も由緒正しい経緯で博士号を取得した人物が、中山茂(なかやましげる)である。自伝によると中山は、終戦直接に東大の物理学科に入学して、天文学者の萩原祐介(はぎわらゆうすけ)の下で天文学を学んだ。しかし、萩原のパワハラまがいの指導に嫌気が差した中山は、大学院に進まず、卒業後には平凡社に入社して、出版業界で数年を過ごす。この時期の中山は、科学書の出版作業を手掛けるのだが、執筆を依頼する人物達に、星野芳郎(ほしのよしろう、1922~2007)のような在野の科学史家、技術史家が多くいた。星野達との交流を通じて中山は、科学史に関する知見を深めてゆく。

 数年間、出版業務を手掛けた中山は、フルブライト奨学制度に応募して採用された。科学史を学ぶために、中山は留学先にハーバード大学を選んだが、そこにいた助手の一人が若き日のトーマス・クーン(1922~1996)だった。英語の授業に難儀していた中山に、クーンは自分の授業について行けるように、手書きの研究ノートを渡して直接指導してくれたという。クーンの指導のおかげで、中山は落第による留学の打ち切りを免れた。が、本業の固体物理学の論文を全く書かずに、アリストテレス研究等の科学哲学に没頭していたクーンの方が、中山よりも先にハーバードから追放されてしまう。中山を残してハーバードを去ったクーンは、直後に、有名な「パラダイム論」の研究成果を発表して、脚光を浴びる事となる

 クーンがいなくなったハーバードで中山は、中国科学史の大家だったジョゼフ・ニーダムの指導の下で、中国天文学の研究を続けて、日本人のフルブライト生として初めてのPh.Dを取得する事が出来た。帰国した中山は、東大駒場の研究室に助手として迎えられ、天文学と科学史の両方を兼ねて研究をしていた。しかしハーバード流の科学史研究を東大に持ち込もうとした中山の考えは、当時の駒場にいた科学史、科学哲学の研究者にとって煙たいものだった。物理、生物、数学の専門過程から科学史に転向した研究者達から、中山は敬遠され、科学史研究者として東大に残る事を拒絶されたらしい。

 中山自身はこの扱いに抗議して、東大に居座り続けた。しかし中山は、学生への指導も授業も任される事なく、単なる一研究者として、助手扱いのまま定年まで駒場で過ごす事となる。出版業界に詳しい中山は、研究内容を著作として多く出版すると同時に、師であるクーンの代表作である「科学革命の構造」(みすず書房、1971年)を翻訳して、ベストセラーにもなった(この本こそが、かの有名な「パラダイム論」のオリジナルである。この訳本も20刷を越えて重版されている。羨ましい)。このため、中山は万年助手のままでも、収入には苦労しなかったようだ。

 1974年に日本で初めての国際科学史学会が、海外から多くの科学史研究家を招いて開催された。その際に中山のコネを頼ることで、クーン、ニーダム達の著名な研究者を、海外から招く事が出来たという。(ちなみに、病を押してこの国際会議の準備と運営に奔走した広重徹は、学会が終わった半年後に死去している。広重自身は死の間際まで、自らの病が不治であるとは認識していなかったらしい)

 余談となるが、この日本の科学史上の最大のイベントとされる、1974年の国際科学史会議で、取りまとめの中心として活動したのが、今回、右翼にその名が知られるようになった、あの福島要一(ふくしまよういち、1907~1989)である。国際科学史会議の準備機関である組織委員会の副委員長(4名)の一人が、福島だったのだ。その下に30人いる委員の中に、広重徹と中山茂の名前がある。福島は在野でぶらぶらしながら、学術会議の活動だけに没頭していた訳ではなく、科学史研究家として学会にも参加していた。著作物も福島にはかなりある。学術会議を通じて予算を取ってこれる福島の存在を、科学史学会側も重宝していたのだろう。

 なお、駆け出し時代の村上は、上記の組織委員会のメンバーに名前が見られず、この国際学会には殆どコミットしていない。当時の福島のことを村上は、「大学人でもない素人かぶれが、大きな顔して出しゃ張るんじゃねえ」位に、内心では思っていたのでは無かろうか?この辺りが、今回の騒動で、村上が福島の事を罵倒する要因の一つだと、私は思っている。見掛けの端正な容貌とは正反対の、ネクラの、全くもってしつこい性格である。村上という人物は。

(村上は、「別に私は福島の固有名詞は出していない」などと、ふざけた言い逃れをするのかもしれない。「F氏は伏見康治で、特定政党とは公明党のことだ」と、後から言い出したら笑える。ちなみに伏見は、自分の苗字のアルファベットを“Husimi”と書くので、F氏ではない。どうでもいい事だが。茶化してはいるが、伏見とその盟友の、渡辺慧:わたなべさとし、の二人の物理学者は、フォン・ノイマンに匹敵する能力を持った、数学の達人だった)

 余談から戻ろう。華麗な留学経歴を持つ中山茂を、万年助手として駒場に封じ込める傍らで、東大科学史研究の表の顔として抜擢されて、活躍したのが村上陽一郎だった。但し、東大以外の一部の学者達からは、村上が東大の科学史研究の代表だとみなされる風潮を、疑問視する意見も、影ではあったようだ。グローバルな経歴からは、村上よりも中山の方が、圧倒的に格上なのは明らかだからだ。

 私自身は、中山によるクーンの訳本は読んではいない。が、中山が主催して、トヨタ財団の支援を受けながら、発刊にこぎ着けた「通史 日本の科学技術(全四巻)」(学陽書房、1995年)(以下は「通史」)は読んだ。「通史」は、日本の科学史研究が誇るべき金字塔の一つだと思う。広重の「科学の社会史」の内容を、ブレイクダウンして詳述する目的で、中山は「通史」を企画して纏めている。個人が手元に置くのは少々大変であるが、「通史」は、日本の理科系研究者の必読書の一つであると断言出来る。

 村上の一連の著作物の方は・・・私には、どうにも読む気が出ないため、コメントのしようがない。

(続く)