何でも書けばいい、ちゅうもんでは無かろうが

相田英男 投稿日:2020/12/10 16:57

相田です。

 学術会議をめぐる論考については、マイナー過ぎる団体ではあるし、創立当時の昔の話も、調べるのが大変だろう、とかも思うので、多少は変な主張でもしょうがないと、私は見ていた。しかし、先日ネットに載った下記の論考は、内容のあまりの薄さに、読みながら目眩を覚えずにはいられなかった。

 いくら何でも、これは無いだろうと、私は思った。

 論者は一応、名のある大学のシンクタンクに席があるようだ。が、この記事を書くために彼が読んだ学術会議に関する文献の量は、私が読んだ文献の10分の1に満たないだろう。そうでないと、下記のような情け無い内容にはならない。

(引用始め)

 具体的にケリーが手掛けた仕事は、第1に、日本の科学者に各自の研究を毎月報告させ、日本の研究を常時監視し、純粋な民生技術以外は潰した。この報告に嬉々として協力したのが、学術会議会長を務めた茅誠司らの3人の科学者である。彼らは三銃士と称し、誇らしげにケリーに協力した。

(引用終わり)

 相田です。茅誠司が学術会議会長だったのは、流石に論者も知っているようだ。が、茅が60年安保闘争の際の東大の総長だった有名な事実を知っているのか?小さな親切運動の提案とかも含めて。

 茅誠司は東京工業大学(旧蔵前)を卒業して、東北大、北大を経て、東大の物理の先生になった。東大の生え抜きではない茅誠司が、総長になった理由は何か?当時の東大で最も大きな権力を持っていたのは、学術刷新委員会の委員長も務めた、機械工学者の兼重官九郎(かねしげかんくろう)だった。その兼重を差し置いて、外様の茅誠司が総長になった理由は、茅がケリー等のGHQ側と粘り強く交渉して、日本の科学技術の低下を最小限度に留める事に尽力したからだ。左翼ではなく、体制側(日本政府)から茅誠司は、絶大な信頼を得ていたのだ。

GHQの一部のメンバーは、モーゲンソー・プランと呼ばれる、日本から重工業産業と科学力を取り上げて、スイスのような農業国に変えてしまえ、という考えを本気で持っていた。そうならないように、ケリーと接触して説得し続けたのが、茅誠司達の本当の成果なのだ。

 論者の引用箇所では“三銃士”とされているが、通常の科学史の文献では“三人組”とされる。右翼系の論考では“三銃士”と書くのかどうか、私にはわからんが。そこには茅に加えて、田宮博(生物学者)と嵯峨根遼吉(さがねりょうきち、物理学者)が入っている。嵯峨根遼吉は物理学者の長岡半太郎の末子である。嵯峨根もまた、重要人物だ。

 嵯峨根は東大を卒業後に、アメリカの加速器技術の大家であるアーネスト・ローレンス(確かノーベル賞受賞者の筈)の元に留学して、最先端の実験技術を学んだ。帰国後に嵯峨根は、理研の仁科芳雄が作ったサイクロトロンの実験に尽力した。それに並行して、海軍の技術士官だった伊藤庸ニ(いとうようじ)の呼び掛けに嵯峨根は応じて、戦時中は海軍の電波兵器やレーダー開発にも、積極的に協力した。

 しかし、戦時体制中に思うような研究が出来ずに、忸怩たる思いを重ねた嵯峨根は、戦後には科学者達自身がイニシアティブを取り、大型研究を積極的に推進すべきと考えた。戦前の古臭い硬直した学術体制を打破するために、嵯峨根はケリーに協力したのだ。ネイティブ並みに英語が達者な嵯峨根を、茅誠司は頼りにしていたらしい。

 ところが何と、その学術会議発足時の総選挙では、嵯峨根はあえなく落選してしまう。茅誠司以外の、学術刷新委員会の多くの関係者達は、左翼学者達の人望がなかったため、落選の憂き目にあった。

 あの兼重官九郎でさえも、最初の選挙では落選したのだ。次の選挙で返り咲いた兼重は、茅誠司に続いて学術会議の会長に就任し、学術会議が持っていた権力を切り離して、政府側に移す事に尽力した。茅と兼重の尽力の結果、学術会議は、政府に提言するための、強制力のない単なる暇な学者達の集団と化したのだ。以降は、共産党の学者達が集まっても、「ガス抜きのために言いたい事だけ言わせておけ、別にあいつらの話を聞く必要など全くないから」というスタンスで、政府は学術会議に対応する事が出来た。これが真相だ。
 
 さて、学術会議で活躍する機会を奪われた嵯峨根は、再度アメリカにわたり、カリフォルニアのローレンスの研究所で研究を行っていた。が、折を見て、日本からやっ来た要人達を研究所に招待し、最先端の原子力技術をPRしていた。その要人の一人が、若き日の中曽根康弘だったのだ。嵯峨根の説明を受けた中曽根は、それからしばらくして、国会に、かの有名な原子力予算を提案する。学術会議の夢が破れた嵯峨根の執念が、日本を原子力開発に駆り立てる結果となった。

 とか、色々と知って、考えると、だな、茅や嵯峨根が、GHQの走狗となって日本の共産主義化に協力した、などという考えが、大きな間違いであると容易にわかるだろう。戦後に、左翼学者達のカリスマとして君臨した、物理学者の武谷三男は、茅誠司と嵯峨根遼吉のコンビを「政府の犬」だと、蛇蝎の如く嫌っていた。武谷のエッセイの至る所に、茅と嵯峨根への文句が出てくる。

 なので、私から見て下記の話は、どう考えても矛盾だらけである。

 論者の勤務先は、日本でも有数の資金を持つ大学のようだが、少しは、学術会議についての蔵書を調べてみるべきではなかったのかねえ?ドローンの話だけで世の中の問題が全部片付く訳じゃないよ。

 池田信夫が、デタトコショウブでブログに書いた文章を参考にするから、こんな薄っぺらい内容になるのだ。

 プレジデントオンラインも、素晴らしいメディアであると、改めて認識出来た。こんなんで許されるんだ。みんな読者を舐めてるよ。

 珍しい記録として、記事を残しておく。

(引用始め)

学術会議の腐敗に、科学者みんなが困っている
12/9(水) 9:16配信 プレジデントオンライン

■学術会議にかけられたGHQの呪い

 今や軍事武装ドローンを持っていない軍隊は、北東アジアではモンゴル軍と自衛隊だけ。中国は言うに及ばず、韓国軍や台湾軍にすら劣後している。

 この一因として、戦略環境変化を認識できず、20世紀の工業化時代の発想に多くの日本人がとらわれていることが挙げられる。その元凶になっているのが、今話題の日本学術会議である。

 この学術会議は1950年の声明以来、一貫して軍事研究の禁止を訴えているのだが、実はこの組織自体が、GHQによる日本非軍事化のためにつくられたと言っても過言ではない。まるで小野田寛郎元少尉のように、失われた司令部からの命令を後生大事に、この弧状列島で守っているのだ。

 経緯を説明しよう。GHQの当初の政策は、軍事的に日本を無力にしつつ、復興に必要な民生関連は残すという方針を掲げていた。

 例えば、GHQは日本占領開始とほぼ同時に原子力・レーダー・航空機といった軍事研究を禁止し、軍事研究と判断した施設はすべて破壊し、組織を解体した。一時は理化学研究所ですら解体されそうになった。学術会議の創設はこの流れの中にあった。

 46年1月、ハリー・C・ケリー博士が赴任してくるのである。彼は原子力などを研究する物理学者であったことからも明白なように、日本の原爆開発を筆頭とする軍事研究の調査・監視・評価・判定・解体を主任務としていた。

■純粋な民生技術以外は潰した

 具体的にケリーが手掛けた仕事は、第1に、日本の科学者に各自の研究を毎月報告させ、日本の研究を常時監視し、純粋な民生技術以外は潰した。この報告に嬉々として協力したのが、学術会議会長を務めた茅誠司らの3人の科学者である。彼らは三銃士と称し、誇らしげにケリーに協力した。

 第2は軍事研究施設の解体で、東大航空研究所の航空機開発用風洞の解体はその典型である。

 第3は、こうして収集・分析した情報を元にした、GHQの科学政策への助言である。

 そして、最後がケリーのもっとも大きな仕事となる学術体制の刷新であった。彼は着任早々の46年の春前から東京帝国大学教授であった、先の三銃士と接触し、彼らに科学者が現実の社会問題に貢献し、活動するための民主的な組織をつくるべしと促した。ケリーとこの三銃士を中核とする集団は、科学渉外連絡会を設置し、そこが準備の中核となり、47年8月、内閣臨時機関の学術体制刷新委員会が設置され、ここが学術会議の創設を提言した。

 そして、49年に学術会議が創設されるのだが、この一連の流れにケリーは深く関与した。三銃士ら科学者に新組織の理念・方向・あり方を指導したほか、刷新委員会では、所属するGHQ経済科学局を代表して演説を行い、会議がそれに対する答礼の決議をわざわざ行うなど、大きな影響力を発揮した。それは学術会議の第1回選挙の開票・集計作業に立ち会っていることからも明らかである。

 そして、発足から間もない50年4月に軍事研究禁止声明を出すのである。その2カ月後、朝鮮戦争が勃発し、GHQの政策は逆コースと呼ばれる、日本の再軍備へと路線を180度転換した。その意味で、学術会議の声明は、GHQによる日本の非軍事化政策の最後の象徴だったのだ。

 さて、今日。いまだに学術会議は2015年の新声明でも、この方針を継承している。ケリーの命令を70年も守るという、小野田元少尉も驚愕の墨守である。

 しかしながら、今やドローン、3Dプリンター、サイバーと民生技術が軍事技術を上回る時代である。そもそも軍事技術が単独で成り立ちえたのは、人類史上のまばたきのような近代の一時期だけである。

 しかも学術会議の姿は、当初ケリーらが目指した、科学者が自由かつ進歩的に現実の社会問題に貢献するという理想像からかけ離れているではないか。事実、ケリーは来日するたびに学術会議の腐敗を悲しみ、嘆いていたという。この機にすべてを見直すべきだ。

部谷 直亮(ひだに・なおあき)
慶應義塾大学SFC研究所上席所員
一般社団法人ガバナンスアーキテクト機構上席研究員。成蹊大学法学部政治学科卒業、拓殖大学大学院安全保障専攻博士課程(単位取得退学)。財団法人世界政経調査会 国際情勢研究所研究員等を経て現職。専門は安全保障全般。

(引用終わり)

相田英男 拝