第4章 理不尽すぎる審判(その1)
みなさんこんにちは。相田英男です。
これからここに、5回に分けて、私の論考「思相対立が起こした福島原発事故」の第4章「理不尽すぎる審判」の全文を載せます。この章は私が最も書きたかった内容なので、読み応えがあると思います。
実は第4章の内容は、1964年2月と3月に国会(衆議院)で開かれた3回の委員会の議事録からの抜粋です。例えば以下から議事録の全文が読めます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0068/04603120068009a.html
( 第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号 昭和三十九年三月十二日)
(注:同じ第046回国会の ① 科学技術振興対策特別委員会 第4号 昭和三十九年二月十三日、② 科学技術振興対策特別委員会原子力政策に関する小委員会 第1号 昭和三十九年二月一九日、についてはリンクが上手く貼れなかったので、国会会議検索システムから辿って下さい。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/main.html )
この中でも、3月12日の委員会こそが最大のクライマックスであり、日本の原子力の方向と福島事故への道筋が決定付けられた日です。この日の議事録を私が見つけた時の、驚きと怒りは今でも忘れません。上の議事録を読んで頂ければ別に事足りるのですが、長いし、余計な会話も多いし、登場人物達の立場などもよくわからないと思うので、以下の私の抜粋を始めにご覧ください。
ちなみに、この中で私が最後までわからなかった、2月20日に菊池理事長がいきなり辞表を出した経緯については、ferreira(フェレイラ)という方ブログの中で先日、驚きの真実が掲載されていました。
http://ferreira.exblog.jp/
ferreira氏によると、当時発行された右翼雑誌「全貌」の64年5月号に、原研の裏事情が全て書かれているそうです。(私もそこまでは調査がまわりませんでした)原研のリーダーであった菊池理事長が、稚拙なマネージメントをした結果が、自らを窮地に追い込むことになったみたいです。やはり菊池は年末の国1号炉のスト事件で限界に達していたのかな、とも思えます。
有史以来初めての、原子炉にテロを掛けられた研究所長になってしまった重圧は、相当なものだったのでしょう。育ちの良いボンボンの菊池は、追い詰められた土壇場の状況では脆かったのですね。茅誠司のような叩き上げ学者ならば、何事も無く混乱を収めることが出来たでしょうが。茅誠司は左翼学者に凄く嫌われていたので、原研理事長は無理だったのですが。
それでも、2月19日の委員会での菊池理事長が述べた、原研の今後の技術方針は、筋の通った素晴らしい内容です。こういうプランを持っていた菊池を追い詰めた、周囲の連中が愚かだったと、私は思います。
今回、ferreira氏と私の力で、日本の原子力開発における最大の闇の部分を切開して、光を当てられたと考えています。64年の2月と3月の出来事が、全てを決めていたのです。これらの議事録がオープンであるにもかかわらず、この内容に踏み込まなかった日本の科学史家達は、どうしようもないと思います。彼等は皆、武谷三男、広重徹の影響で、左翼バイアスが強すぎて、事実がありのままに見えなくなっているとしか思えません。
ここで書いた事件について詳しく調査して纏めると、博士論文が書ける位の濃密な内容でしょう。但し悪名高い「全貌」からの引用は、流石にできないでしょうが。
相田英男 拝
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相田英男
「思想対立が起こした福島原発事故」
第4章 理不尽すぎる審判
4.1 原研とはおいらん道中なのか?
4.2 菊池正士、国会に立つ
4.3 最強の刺客あらわる
4.4 訪れた運命の日
4.6 打ち出された「森山ドクトリン」
4.6 悪いのはすべて理事長
4.7 オセロの駒にされた原研労組
4.8 正義は何処にある
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第4章 理不尽すぎる審判
4.1 原研とはおいらん道中なのか?
63年末から半年の間、JPDR導入をきっかけに労使問題で紛糾した原研の様子について、科学史家の吉岡斉(よしおかさとし)は、主著である「原子力の社会史」の中で次のように記している。
―引用始め―
(原研では)1959年6月以来ストライキが頻発し、(中略)労使関係が極度に悪化したため、原研首脳陣の人事面での管理能力の欠如が、クローズアップされた。このように原研という組織自体が、政・官界の強い不信感にさらされた。そうした不信感の高まりを受けて64年1月、衆議院科学技術振興特別委員会が、原子力政策小委員会(中曽根康弘委員長)を設置し、「原研問題」の調査に乗り出した。そして三ヶ月後の64年4月、特別委員会は統一見解をまとめ、原研改革の基本方針を提示した。(中略)それ以降原研は、政府系の原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪され、研究所内の管理体制が大幅に強化された。
―引用終り―
相田です。ここでの吉岡の説明はすこぶる簡単なものだが、その最後には「原研は、政府系の原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪され(た)」という、なんとも尋常ではない記述がある。第4章では、この吉岡のいうところの、原研が「原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪される」過程を、具体的に追ってゆくこととする。
さて63年12月のJPDR(動力試験炉)の引取りを終えて、年が明けた64年1月には、自民党政治家達の手により原研の混乱した状況を収拾するため、中曽根康弘を委員長とする「原子力政策小委員会」が設置されたとされる。しかし、具体的な動きが公に確認されるのは、翌月2月13日の「第46回国会 科学技術振興対策特別委員会 第4号」である。議事録によると、この日は島村武久が再び登場し、社会党の久保三郎(くぼさぶろう)議員からの質問への答弁を行っている。
久保議員の質問は原子力行政全般に関する広い内容で、ここでは特に引用は行わない。ただ、年明け以降にJPDRが停止している理由について、久保議員は「GEからの引き渡しが終わった後で、JPDRに故障が見つかったためではないのか?」と問い質した。これ対し島村は、「JPDRの停止理由は、労組との争議(ストライキ)協定が切れていることも一因であり、協定締結次第に運転に取り掛かる予定である」と回答している。
第3章で記したように原研では、GEからJPDRを受入れるために、11月28日に労使間の争議協定(スト実施前の24時間の猶予を設けること)が慌ただしく締結されたものの、引渡し後の12月末には協定は失効していた。年明けから原研の労使間では、新たな争議交渉が進められていたものの、未だ合意されておらず、それが解決できないとJPDRの運転は出来ないことを、島村はさりげなく訴えている。このJPDRの新たな争議交渉は、この後、様々な外乱が加わることで難航する羽目となる。
2月13日の討論でもっと面白いのは、同じ社会党の岡良一議員と科学技術庁長官の佐藤栄作とのやり取りである。以下に議事録から一部を引用する。
―引用始め―
(岡委員) いま問題になっておるのは、原研の組織と運営がこれでいいかという問題でございます。八年の間に五百億をこえる国家資金を投入しておるはずでございますし、また、原子力政策の中核として国民の大きな期待をつないでおる、原研が、現状でいいのか。あるいは原研の組織、運営の刷新、そのためには日本の原子力政策そのものがもう少しきちっとしなければいかぬ。いわば、原研にもし混乱がある、あるいは停滞があるとすれば、その大きなバック・グラウンドとしての責任は、むしろ原子力政策そのものにある、原子力委員会にある、こう申し上げたいのでございますが、この原研の停滞、混乱、紛争というものの真の原因というものを、われわれが前向きに解決しようとするならば、ここまで掘り下げて考えるべきではないか、こう思っておるわけです。この点、長官の御見解を承りたいと思います。
(佐藤国務大臣) どうもこれは事柄の性質上、どこか責任者を明らかにしたいというお気持ちがおありのようですが、私考えますのに、第一段は、特殊法人でございますから、特殊法人内部において解決すべき事柄のように思います。さらに、それが方針を決定する立場においては原子力委員会、あるいは原子力委員長である私自身がそういうことを考えるべきですが、そう理屈っぽくならないで、今日までのところまだ基本的な方針もはっきりなっておらない、これは事実でございますから、ただいま何があるのだと言われれば平和利用という、それだけははっきりしておるから、その方向でさらにこれを掘り下げていく。これは原子力委員会等においても問題だろうと思います。(中略)
そういう事柄と関連をいたしまして、私どもの立場は、管理者(引用者注:原研理事側のこと)に対してのいろいろの要求はできる。しかしながら、組合側に対してどうこうという問題は、これは管理者の中できめることじゃないだろうか、かように実は思っておりますので、労使双方の紛争の渦中にはなるべく入らないように注意しておるつもりです。(中略)
問題は、やはり私どもが方針として明示するもの、これは管理者に対してする。それから労使双方の問題は管理者内部の問題である。やはり区別して考えて、組合の内部の問題まで原子力委員会の責任にするというのは少しぼやっとしておりまして、範囲が広過ぎやしないだろうか。(中略)なるべく労使双方の紛争は労使双方できめていく、そういう形でありたいものだ、かように思っております。
―引用終り―
相田です。岡議員は、「原研がここまで混乱した原因は、原子力政策がきちんとしていないためではないのか、原子力委員会はこの事態の収拾にもっと積極的に取り組むべきではないのか」と、原子力委員長の佐藤大臣に迫った。岡議員の主張は、私にも大変もっともなものだと思えるが、これに対して佐藤は、「労使紛争の解決は原研内部の話し合いで行うことが筋であり、原子力委員会はこれに介入するつもりはない」と、責任をかわした。どんなに原研でもめごとが起ころうとも、労使関係という組織の内部問題には原子力委員会は関与しないと、佐藤は逃げを打った。
しかし、このような弱腰の回答を受入れる岡議員ではなかった。少々長くなるが、岡議員の佐藤への訴えを続けて引用する。
―引用始め―
(岡委員) 私が申し上げたのは、別に労使間に紛争があるということだけを申し上げたのではない。問題は、原研を現在刷新しなければならないとすれば一体どこに原因があるかということを、労使の問題をも含めて、これはわれわれにも責任があるのだから、謙虚に反省して、この反省の成果に基づいてそこに初めてほんとうの刷新ができる。(中略)本質を突き詰める必要がある。こういう本質を突き詰めることによって初めて前向きの解決ができるのだと、こう私は考えておるわけです。
そこで、たとえば先ほど久保さんの御質疑にもお答えになられましたが、原研でいろいろな炉をたくさんつくられましたが、一体一貫性ある研究体系というか(中略)、そういう計画性のある一貫した研究体制の上に炉がつくられておったのかどうか。この点では私は非常に疑問にも思っておるし、たびたび委員会でも申し上げておったわけです。たとえば具体的に申し上げまして、日本で動力炉をつくるというので、原研の若い研究者の諸君がどんな炉の形がいいのであろうかということをいろいろまじめに検討した。ところが、しゃにむにコールダーホール型が採用された。
かと思うと、一方ではまた国産動力炉、これは原子力委員会のほうでは天然ウラン重水型。そうかと思うと日本原子力発電株式会社は第二号炉は軽水炉型、三号炉も四号炉も電力会社にまかせて、多分軽水炉型のものではないかなというように、全然一貫性がない。原子力研究は自主的にと基本法に書いてあるのだけれども、これでは全然一貫性というものが見られない。こういうところに、やはり原子力研究所に働く人たちの、初めは非常に開拓的な精神を持って入ってこられた諸君の、いわば意欲をそぐ、士気をそぐ大きな原因があるのではないか、私はそう思うのです。(中略)
(佐藤国務大臣) もちろん国産炉というものが、技術者によるわが国の純粋な国産炉、そういうものに非常に力を入れるべきだと思います。しかし、原子力そのものが、先進国だといいましてもどんどん改良されつつある今日でございます。その基礎的なものだけを準備した、こういうのが現在の状況でございますから、いま言われること、将来力を入れること、これなどはまた変わってくるだろう。で、ただいま実用に原子力発電所をつくる、そうして大きいものをつくる。そうしなければこれは間に合わない。おくれている。そのおくれを取り返す。それにはどうしたらいいか。それは外国の例などを見て、そうして外国が成功しているものを日本でつくってみようじゃないか、こういう形になるのが、これは普通のことではございますまいか。(中略)
(岡委員) 御存じのように、アメリカは濃縮ウラン軽水減速冷却、フランスへいけば天然ウランでガス・クールド重水減速で、英国は黒鉛減速で天然ウランでガス・クールド、それぞれタイプを持っている。ところが、カナダへいけば天然ウラン重水一本である。しかも、そういう炉のタイプにいたしましても、長官お示しのように、やはり日進月歩にどんどん進んでおるわけです。だから、外国のものをまねようと思ってあとを追いかけていったら、これは切りがない。(中略)
ところが、人が足りないのに、外国からあれこれの炉を入れる。こういうことで、ただ完成された自動車と燃料を外国から買って運転手を養成する機関になっているというような姿に原子力研究所が、追い込まれたのでは、私は日本の原子力研究所が真に原子力政策の拠点として、中核として発展し得ないのではないか。こういうところにやはり原研の現在の停滞、混乱の一つの大きな要因があると思うのです。
―引用終り―
相田です。日本の原子力技術が外国に遅れているから、よそで成功した原子炉を入れようといっても、アメリカ、フランス、英国、そしてカナダと、それぞれ形式の異なる炉型を開発しているではないか。まねをしようとしても全てを買う訳にはいかないだろう。なぜ日本独自の、主体性をもった開発方針を原子力委員会として打ち出すことをしないのだ?という、まことにもっともな提言を、岡議員は行っている。
ここで岡議員が懸念を示している、外国の原子力技術へのサルマネ体質は、現在の「原子力ムラ」においても一向に解決されないままであることは、誰もが理解できると思う。50年前にすでに国会で俎上に上げられたこの問題が、なぜ現在に至るまで放置されたままであるのか、その答えはもうじき本論考で明らかにされる。岡議員の質問からの引用を続ける。
―引用始め―
(岡委員) なぜそういうことになったか。私はそこに原子力研究をゆがめる要因があると思う。先ほど申しましたように、なぜコールダーホールが入ってきたのか。その当時この委員会では何回も何回も問題になった。やはり、正しい研究を一本で進めようとする、その一本のレールを押し曲げようとする外部の力があった。それが原子力研究所が各国の炉の陳列会場であるといわれるような形にまで持ってきた一つの大きなあれじゃないか。
こういうものにゆがめられたのでは、ほんとうの日本の原子力政策、一貫性のある正しい軌道に乗った発展というものは望み得ないと思う。こういうものを排除していくというくらいの大きな決意を持って、ほんとうに日本の若い科学者の意欲を満たし得るような原子力体制、研究体制というものをつくるということが、原研立て直しのまず一番のめどじゃないかと思うのです。(中略)
私結論だけ申し上げておきますが、とにかくこれは、下世話なことで恐縮だが、日本原子力研究所はおいらん道中をしておるという話が実はある。なぜかと聞いてみましたら、とにかく花かんざしからこうがいから高げたまで、よその借りもので、見た目は非常にあでやかだ、しかし中身は遊女だ。他人のきげんきづまばかりとっておるというのが心でしょう。こういうことは私どもはまことに不快な話でございます。
この際、長官もおっしゃられたように、やはりそういうおいらん道中ではなくて、ほんとうに自分の足で歩けるように原子力研究所の立て直しをやってもらいたい。それにはまず、日本の原子力政策というものが他の力によってゆがめられないように、同時に、こういう新しい科学の分野の研究でありますから、もっと計画性、総合性、一貫性というものを十分に尊重していく。原子力研究所内部においてもっと指導体制というものを確立してもらいたい。もうその日限りというような、右顧左べんのような姿では困る。確立し得るように予算その他の面においてもやはりめんどうを見てもらいたい。(中略)
(佐藤国務大臣) よく伺っておきます。
―引用終り―
相田です。第三章で触れたように、岡議員は精神科医から社会党の衆議院議員に転じた方であるが、原子力についても強い関心を持ち、熱心に勉強されていることが、言葉の端々から伺える。岡議員は、55年に成立した原子力基本法の提案に社会党を代表して加わっているが、その後の原子力委員会の開発方針が一貫せず、「その日限りの、右顧左べんのような姿」で彷徨い続ける状況に、強い憤りを感じていたのだろう。ちなみに岡議員の主張の合間には、佐藤大臣が何回か返答しているのだが、岡議員の話に比べるとあまりに内容に乏しいために、ほとんど引用しなかった。
「原研がおいらん道中をしている」という箇所は、今の国会の風潮ではほとんどセクハラに近い問題発言であるが、このようなユーモラスな例えを使うことで、岡議員の発言には説得力が増している。「(日本の原子力は)見た目は非常にあでやかだ、しかし中身は遊女だ」とは、正に至言というしかない。この日の討論では、原子力委員会の怠慢を叱責する岡議員に、佐藤大臣が完全にやり込められる結果となったが、戦いはまだ序盤戦に過ぎなかった。
続く2月19日に開かれた、「科学技術振興対策特別委員会 原子力政策に関する小委員会 第1号」では、参考人として当事者の菊池理事長が招かれて説明を行うこととなる。
4.2 菊池正士、国会に立つ
2月19日の「原子力政策に関する小委員会 第1号」は、原研の状況と問題点について調査することを目的として、中曽根康弘小委員長の下で開催された。原研からは、菊池理事長の他に2名の理事が参考人として出席し、主な報告と答弁は菊池理事長自身が行っている。この日の最初に菊池が述べた、原研の近況報告から引用する。
―引用始め―
(菊池参考人) 最初に(中曽根小委員長が)おっしゃいました、原子力の日本における位置と原研という非常に大きな問題でございますが、私のただいま原研の理事長をやっておりますそのままといいますか、(中略)率直に私のいま原研の理事長をやっております点の感じを申し上げたいと思います。
まず第一に、日本の原子力の出発の当時のこと、ちょうど七、八年前のことを考えてみますと、まあ非常な意欲と勇猛心をもって、短期間に諸外国とのおくれを取り戻すというような、非常な勢いをもってこれに飛び込んだわけです。(中略)当時、私は学界の側におりまして、学界の側は、これはかなり批判的であり、消極的であった。私も学界の側にありましたのですが、原子力のような事業が当時の学界のような消極的な――消極的と申すと語弊があるかもしれませんが、非常に用心深い態度だけでは、原子力というものはとても日本には芽ばえまいというふうには考えておりました。したがって、私も当時原子力委員会の参与等をいたしておりましたが、出発後にも、私は学界としてできるだけこれに協力してやっていく考え方をとってやってまいりましたのですが、とにかく非常な決心と勇猛心をもって開発に飛び込んだという状態でございました。
それから約八年ばかりたって、現在の原研というものが置かれている状態といいますのは、私は決して弱音を吐こうとは思いませんけれども、これを戦争にたとえるならば、非常な決心でもってある部隊を送り出した。それで、非常な苦戦をしている。それに対してあとから兵たん部も補給部隊もどんどん来ればいいのでありますが、これがなかなかおくれていて、来ない、前線に取り残されて非常に苦戦をしておる、そういう感じを私は率直に申して持っております。これは決して私の弱音ではありませんが、事実そういうことになっていると思います。
それで、いろんな労務問題、その他の関連も、こういった非常な苦戦の状態になりますと、いろいろな意味で士気も乱れます。こういう場合に、士気をまとめ、秩序を保って整然とやるということは非常な努力が要る仕事でございます。(中略)戦争の場合ならばスパイが入り込むという余地もできましょうし、いろんな問題がそこに起きるわけでございます。
ですから、私はこの原研の問題を他に押しつけようとは決して思いませんけれども、そういった日本全体としての原子力の開発という観点からこの原研の立場を十分に見ていただいて、そして、原子力政策というものをはっきり立てていただいて、この際戦線を縮小するとか、あるいは補給部隊をどんどん送るとか、そういったような措置をここで十分とらなければ、せっかく飛び出していった先発隊が見殺しになるという事態も起こりかねないということを私はここに申し上げたいのであります。
―引用終り―
相田です。この日の菊池は最初から、非常に率直に自らの考えを綴っている。中曽根予算提出に始まる原子力開発の勃興時には、学術会議を中心とする科学者達が非常に消極的であったため、菊池は「これではだめだ」と「とにかく非常な決心と勇猛心をもって(原子力の)開発に飛び込んだ」という。
しかし菊池は現在の原研について、部隊が最前線に孤立している一方で補給が満足に得られず苦戦している状況であると、戦争に例えて話している。戦争中に海軍技師としてレーダー開発に従事した菊池らしい説明だと思う。菊池はここで「労務関係の問題も苦戦による志気の乱れに起因している」と述べ、「この際戦線を縮小するとか、あるいは補給部隊をどんどん送るとか、そういったような措置をここで十分とらなければ、せっかく飛び出していった先発隊が見殺しになるという事態も起こりかねない」という切実な要望を訴えている。それに続く菊池の説明を引用する。
―引用始め―
(菊池参考人) もう少しそれを秩序立てて申し上げるならば、確かに日本には原子力委員会というものがございまして、これが原子力の政策をきめてまいります。現在原子力の開発に関する長期計画というものもできております。(中略)しかし、かなりそれが抽象的なものでありまして、必ずしもあまり具体的にはなっておりません。それから、そういう原子力政策を遂行するためには、必ずそれに伴ういろんな予算的、あるいは人員的な裏づけが必要になります。それで、私の一番感じますのは、原子力政策を立てるということと、それに伴うそれの実行計画の具体的な樹立、これが必要だと思います。
実行計画と申しますのは、金と人の問題でございます。これを現在のごとく(中略)、原子力研究のような息の長い仕事をするためには、どう見ましても、一年ごとの概算要求の提出、それの切った張ったといったやり方、これでは大きな計画の立てようがございません。諸外国のいろんな例を見ましても、いまの日本のような予算のやり方で原子力の開発をやっている国はないといっていいと私は思います。少なくとも向こう三年くらいにわたってのはっきりした予算と人の裏づけというものがないことには、こういった仕事はできないといわざるを得ないと思います。(中略)
私は何も原子力だけに時別な措置をしなければいかぬというところまでは言っているわけではございませんが、日本の将来のエネルギー問題として原子力のことを非常に重要視されるならば、少なくとも原子力について何かそういった考慮がしていただけないと非常にむずかしいということを感ずるのであります。
これは決して弱音とか泣き言を申すつもりはないのでございますけれども、四年間ばかり原研の仕事をやってまいりまして、つくづく感ずるところであります。もちろん原子力委員会ともたびたびそういう話はいたしますし、原子力委員会としても十分その点は考えて、いろいろやっていてくださいます。しかし、これは単に原子力委員会とか原子力局とかだけの問題ではございませんで、日本全体のいろいろな面のあり方に関連することだと思います。そういったことが私はこの原子力をやっていく上の基本に大きな問題としてあるということを申し上げたいのであります。
―引用終り―
相田です。結局のところ菊池はここで、問題の核心は原子力委員会のありかたにあるのだ、と述べている。原子力委員会という最高組織はあるものの、そこで決められる長期計画は抽象的な内容に過ぎず、具体的な予算、人員に対する裏付けがなされていないことが、実務を進める際の大きな障害になっていると菊池は説く。原子力委員会が長期的な計画を打ち出しても、予算の遂行は大蔵省の一存で決められてしまい、原研の労務費等のお金は、大蔵省が決めた単年度毎の概算要求の中からむりやり絞り出さねばならない。これでは、長期的な安定した研究開発の遂行など無理ではないか、ということである。「少なくとも向こう三年くらいにわたってのはっきりした予算と人の裏づけというものがないことには、こういった仕事はできないといわざるを得ない」という菊池の主張については、まったくもって、私も同感である。
菊池がここで訴えた、原子力委員会が実際の研究開発の遂行に役立っていないという指摘は、2月13日の岡議員の主張と全く同じであることに、注目すべきである。続いて菊池は、今後の原研の活動方針について説明している。
―引用始め―
(菊池参考人) 大局的な話はそのくらいにしまして、いま少し原研の現状を申しますと(中略)、原研には現在JRR1、2、3、4と四つ研究炉がございまして、そのほかに動力試験炉JPDRがございます。それから、それに伴っていろいろ大きな研究設備としてはホット・ラボであるとか、あるいは再処理試験場であるとか、それからまた最近はRI製造工場もどんどんできつつあります。(中略)これらのものが、今後の日本の原子力の発展のためのファウンデーションにとっては必要欠くべからざるものであろうと、私は信じております
それから、それでは今後こういうファウンデーションの上にどういった仕事をやるのか、(中略)いま原研としてこれだけはやっていこうと思っていることで、はっきりしておりますことは、第一番目は、まずいわゆるプルーブン・タイプといいますか、現在欧米でもう十分開発された炉で、近い将来日本にどんどん導入されてくるであろうという、これは産業界を通じて、電力業界を通じて入ってくるであろうという炉型で、主としてこれはイギリスのコールダーホール、これはもう建設もなかば以上進んでおります。
それから、二号炉としては、おそらくアメリカ式の軽水炉が入るであろう、将来ともこの軽水炉型は相当な数が入ってくるであろう。そういうようなことを目標といたしまして、こういったものに対する、たとえば今後はこれがだんだん国産化されていくことが当然考えられる。そのための国産化、それから国産に伴って、これはただ前のものをまねしてつくるだけではなく、いずれその部分、部分でありましょうが、改良しつつ国産していくでありましょう。そういったことに対する寄与、これを一つの原研の重要な目標に考えております。
―引用終り―
岡議員からは「おいらん道中」と揶揄されたものの、近年稼働を開始した大型原子炉を中心とする原研の一連の「ファウンデーション」は、今後の日本の原子力の発展のために必要なものだと菊池は説く。これらのファウンデーションを用いて取り組む最初のテーマとして、菊池は「プルーブン・タイプ炉の国産化」を挙げている。
「プルーブン・タイプ炉」とは分かりやすく述べると、「発電装置としての機能を(欧米において)実証済の原子炉」という意味である。菊池の説明にあるように、このタイプとしては、当時既に建設中のコールダーホール型(英国製)と軽水炉型(米国製)が該当する。しかし、前者の日本への導入は最初の1基のみで終わってしまったことから、プルーブン・タイプとは実質的には軽水炉を指すことになる。すなわち菊池は、原研の第1の目標として、「軽水炉型原発の国産化」への貢献が重要であると主張しているのである。何はともあれ、まずは軽水炉の技術的なバックアップが大事であるということである。
軽水炉型原発が真の意味でプルーブン(この場合「商業設備として安全性が十分に証明されている」という意味)であるかどうかについては、原発反対派からは異論が噴出するであろう。3.11福島事故を起こしてしまうような設備が「プルーブン」であるなどとは、到底言える訳がないのだが、この問題に関してはここでは触れないことにする。
さて菊池が想定していた、軽水炉の国産化を進めるための「ファウンデーション」となる設備とは何か?当然ながらそれはJPDRであることは明らかである。このような、まずは手近な処から技術を着実に積み上げて行こうとする菊池の方針は、極めてまっとうなもので、技術開発の王道であると自分には思える。この菊池の路線に従って、原研がその後も軽水炉の改良を継続していたら、福島事故は間違いなく防ぐことが出来たであろうと、私は断言できる。しかしながら、現実はそうはならなかった。
菊池はこれ続く第2、第3の原研の目標について、以下のものを挙げている。
―引用始め―
(菊池参考人) それから、さらに非常に遠い将来を見ましたときに、原子力の将来が高速増殖炉に置かれているということ、これはいま各国とも共通な目標であります。この高速増殖炉というものが完成いたしませんと、原子力というものの開発をやる意義というものが非常に減殺されます。(中略)これにはいろいろむずかしい技術がございますので、われわれとしても、高速増殖炉の問題はいつまでもこれを追究していき、でき得るならばやはりここにある程度の実験炉の建設を目標に、これを追究していきたいということを考えております。
それからもう一つは、いわゆる二年ばかり前から出始めました国産動力炉の開発をひとつやる。これは遠い将来を考えますと、高速増殖炉一本ではこれに必要なプルトニウムの資源をどこからか持ってこなければならぬ。その資源を持ってくるために別のタイプの、いわゆるコンバーター・タイプの炉が必要になってまいります。(中略)こういう炉ももちろん諸外国でいろいろなタイプの炉がすでに開発されつつあります。(中略)その中でも特に日本にとってこういう種類のものが非常に重要であろうと思われるものを取り上げて、今後の国産動力炉の炉として取り上げていこうということが原子力委員会の考え方でありまして、その部会で決定されたのがいわゆる重水炉、天然ウランを基調とした重水炉ということになっております。(中略)
現在、それでは重水炉でどういう型をやるかということについていろいろ検討中でありまして、(中略)これが決定されれば、そういった意味の国産動力炉と増殖炉の開発、それから最初に申しましたプルーブン・タイプの炉の国産化、改良、そういったことを原研の開発の主要目的としてやっていきたい、かように考えているわけでございます。
―引用終り―
相田です。ここで菊池が触れている「コンバーター・タイプ炉」とは、西堀栄三郎(にしぼりえいざぶろう)による「半均質炉開発」が頓挫してからの「国産動力炉開発」の後日談である。最終的に目指す方式は「高速増殖炉」であることは変わっていないものの、その前の「つなぎ」として選定されたのがコンバーター炉である。「コンバーター」とは一般には「変える、変換する」という意味があるが、原子力においては、原子炉が運転する際の「ウラン燃料の転換」を指す。すこし説明すると、原子炉を運転する際には、ウラン235の核分裂により発生した中性子が、核分裂しにくいウラン238に吸収されて、再び核分裂を起こすプルトニウム239に「転換」される。この時の、新たに作られた核分裂性プルトニウム239の量を、「燃えて」無くなったウラン235の量で割った値を「転換比」と呼ぶ。
通常の軽水炉では転換比は0.6であるが、「もんじゅ」に代表される高速増殖炉では転換比は1.0を超える値となる。すなわち高速増殖炉では、元のウラン燃料が無くなった後により多くの燃料が新たに作られることになる。「夢の原子炉」と呼ばれる所以である。菊池が触れた「コンバーター・タイプ炉」とは、転換比が軽水炉より上回るものの1.0には及ばない程度(だいたいは0.7~0.8程度)の性能を持つ原子炉のことである。
このような炉が必要とされた理由は、高速増殖炉の実現には技術的な困難が高いので、その前段階の技術として、将来の高速炉の燃料に用いるプルトニウムを事前に準備するという目的が、原子力委員会と原研との間の相談で出されたためである。本当にそんなものが必要なのか?という疑問も、当時からあったようであるが、炉型としてはカナダで開発されていた、天然ウラン燃料に重水冷却材を組み合わせた原子炉(CANDU炉の前身にあたる装置)を参考に出来ることから、半均質炉のような前例のない炉型ではなく、実現性の高い堅実な方針にシフトしたと言える。この考え方を発展させることで、青森県で1978年に臨界に達した装置が新型転換炉「ふげん」である。
実は、残りの高速増殖炉においても、当時の原研では着実な進展が現れていた。63年に原研では高速炉の反応実験を行うための臨界実験装置(Fast Critical Assembly, FCA)の予算が認可され、67年4月に臨界を達成する。さらに65年からはFCAの建設と並行して高速実験炉の設計が原研で開始され、68年には240枚の図面による2次設計図面を完成させた。原研でこの一連の高速炉開発を指揮した能澤正雄(のざわまさお)氏は、阪大菊池研の出身の非常に優秀な研究者であった。この設計図面を元に茨城県大洗海岸に建設されて、1977年に臨界に達したのが高速実験炉「常陽(じょうよう)」である。
しかし、原研の輝かしい成果になるべき「常陽」の建設と運用は、原研から引き離されて、67年に分離独立した動力炉・核燃料サイクル事業団(動燃)に移されてしまう。この経緯については次章で述べる。
半均質炉の失敗等の問題はあったにせよ、菊池がこの日に打ち出した原研が取り組むべき3つの目標は、技術的な重要性と実現性の観点からは非常に妥当で、当時の状況の中ではベストな考え方であったと、自分には思える。特にプルーブン・タイプ炉(軽水炉)の国産化を最初にきちんとやりぬくのだ、という目標が、福島事故を防ぐ観点から極めて重要であることは、言うまでもないであろう。
しかし、このような菊池の前向きな決意表明に対しての、中曽根の反応はあまりにそっけないものであった。以下に引用する。
―引用始め―
(中曽根小委員長) いまのお話の中で、われわれ聞きたいと思ったのは、内部の経営管理の問題です。内部機構とか、あるいは労務問題やなんか、問題がなぜ起きているか、どうしたらよいか、そういう所見をひとつ述べてください。
(菊池参考人) それでは、まず経営管理の問題から問題点を申し上げたいと思います。(中略)非常に具体的な面で言えば、(中略)東海というところにああいう大部隊があり、そして東京に本部というものがある。この機構をどういうふうに能率化したらよいかというような問題がもちろんございます。(中略)つまり、東京本部と現地との関係が必ずしも一元的にいかない、その組織上にも多少不備な点があるということを考えております。(中略)
それから、労働問題でございますが、これはJPDRの場合にいろいろな問題が起こりましたが、(中略)実情を申しますと、ああいうものの建設に当たる人は、相当高度の技術者あるいは研究者に近い人たちを相当多く必要とします。建設自体を、とんかちをやる人の意味ではございませんが、その研究をまとめ、建設をまとめ、そしてそれを監督し、それをつくっていく段階では、非常に高度の技術的な知識を持った人、研究者に近い人を大ぜいつぎ込んでやってきたわけでございます。
しかし、それが一方完成して、運転という段階に入りますと、そういう人たちがただコントロール・デスクですわって運転するのでは、そういう本人の仕事として不適でありますし、十分に陣容のある外国なんかでは、そういう建設段階が済めば、すぐそれを運転のグループに引き渡すというようなかっこうで、簡単に片づいていくわけであります。
原研では、まだ原子力に関する運転とか保守とか、そういったような要員が十分に育っておりません。そういった人たちの訓練や養成ということは、われわれも十分心がけておりますけれども、しかし、実際にそういうことができるようになるためには、そういう炉があって、そういう炉にくっついて仕事をしてそういう人は養成されていくのであります。どうしてもそういう要員の不足を生じます。したがって、仕事が非常に無理になる。あっちこっちに無理ができて、いわゆる労働条件が悪くなるというような事態もそこに出てまいります。
それから、非常に高度の知識や技術を持った研究者に、そういった仕事を長いことやらしておきますと、そこに不平不満も出てまいります。そういったようなことがJPDRには一つの内在的な問題としてだんだんと含まれて、最後の段階にそういうことが非常に起きた。一方、原研の一般的な労使関係のよくない問題もございまして、そういうものとこういうものが結びついて、ああいうようなたいへん申しわけないような事態が起こってきた、そういうふうに考えます。(中略)
これはしかし、こういった発展の途上やむを得ないことでありまして、その間に労使間の一般的な関係がよければお互いに協力して何でもやろうという意識がそこに生まれて、そういう問題も克服してどんどんやっていけるわけでありますけれども、その他いろいろ複雑な問題もありますし、それから先ほど申しましたような、たとえば研究の目標とか、そういったようなものについてまだ十分徹底していない点もありますために、複雑な要素が結びついてああいうことになってしまった、そういうふう見ます。(中略)
(中曽根小委員長) どうも御苦労さまでした。
―引用終り―
相田です。中曽根にとっては結局、菊池が力説した原研が取り組むべき今後の技術課題についてはどうでもよく、労組をどうやって管理するつもりなのだ、という点だけが関心の的であった。これに対する菊池の回答は、それまでの技術の説明に比べるとあまり歯切れの良いものでは無い。大型原子炉の稼働に伴って必要となる管理、保守の人材が原研では足りないため、高度な能力を持つ研究者にこれらの単調な仕事を担当させてしなったことが、不平不満を生んでしまった、というものである。菊池は11月2日付けの理事長声明で記したように、労組の対応を「暴挙である」という強いニュアンスで批判することはしなかった。ここでは菊池は明らかに労組をかばっている。願わくは、労組に対する厳しい責任追及をすることなく、この難局を乗り切りたいと思っていたのであろう。しかし自民党の代議士連中は、菊池のそんな甘い親心を見逃すことは無かったのだった。
この日はこれ以降、菊池に対しての厳しい叱責はなされなかった。ただ中曽根は最後に、原研で起こった問題についていくつかの項目に分け、各調査項目への見解を記した報告書を提出するように菊池に要請した。中曽根は同様の調査資料を、原子力委員会でもまとめて提出することも求めた。中曽根は「これらの項目に対する御所見は、抽象的な、いわゆる大臣答弁的なものは必要はないのであって、ものごとの実体に触れた、核心に触れた御見解を御提出願いたいと思います。いわゆる大臣答弁と称するようなものは、出されても意味はありません。(中略)時期は今月一ぱいでけっこうでございますが、恐縮でございますが、なるたけ長文のものを御提出願いたいと思います」と述べた。
この中曽根の提案を受けて3月に、原研と原子力委員会から「調査項目書」が独自に提出され、その内容が「科学技術振興対策特別委員会 原子力政策に関する小委員会」において審議されることとなった。そして3月12日の小委員会には原研から菊池が、3月19日の小委員会には原子力委員会から当時の委員の兼重寛九郎が、それぞれ出席して説明と質疑が行われた。菊池が再度登場した3月12日の委員会の日付は、奇しくも東日本大震災の翌日であるが、しかしその時には、中曽根が上で要求した「調査項目書」の内容は、もはやどうでもよくなっていた。2月21日に菊池は、他の原研理事者2名と一緒に、佐藤栄作科学技術庁長官宛に辞表を提出していたのだった。
(つづく)