科学と技術は同じではない
相田です。
評論家の池田信夫のブログで、以下の文章が記載されていた。全文ではないが引用する。
(引用始め)
2023年09月01日11:23 (池田信夫ブログより)
「軍事革命」が近代科学を生んだ
この投稿(相田注:大石雅寿氏の旧Twitterへのある投稿文のこと、引用元のブログ参照)が炎上しているが、その発火点は「軍事研究が学問だとさ」という大石雅寿氏(国立天文台准教授・学術会議正会員)の(相田注:旧Twitterへの)投稿である。ここには軍事の蔑視だけでなく「技術は科学ではない」という理学部系によくある思い込みがあるが、これは誤りである。科学は本質的に技術なのだ。
学問(エピステーメー)と技術(テクネー)を別の知識と考えるのは、古代ギリシャから同じである。中国では印刷術も火薬も発明されたが、産業革命は起こらなかった。それは学問と技術がまったく別の知識だったからだ。
学問の担い手はエリートで、その条件は古典を暗記することだったが、技術は職人が経験的に蓄積した知識で、体系化されなかった。ヨーロッパ中世でも最高の知識人は、聖書やアリストテレスを読んだ聖職者だったので、オリジナリティは重視されず、イノベーションには価値がなかった。
それを変えたのは、16世紀の植民地戦争と軍事革命だった。学問で戦争に勝つことはできない。特にアジアや新大陸を支配したイギリスにとっては、古典は役に立たなかった。大砲や爆弾などの重火器が生まれ、異民族と戦うには実証的な知識が必要になった。
しかし観察や実験だけで科学はできない。新しいパラダイムが生まれるには、聖書とは違う理論が必要だった。ニュートンは神学者であり、『プリンキピア』は神の構築した宇宙の秩序を数学的に説明するものだったが、結果的には天動説よりはるかに正確に天体の運行を予言した。
その数学理論は、大砲の軌道計算に使われた。相手をねらう鉄砲とは違って、重火器は軌道計算ができないと役に立たない。天文学が軍事技術に応用されたことで、各国は競って科学技術に多くの人材を動員し、近代科学が飛躍的な発展を遂げたのだ。
(引用終わり)
相田です。引用文に書かれている「「技術は科学ではない」という理学部系によくある思い込みがあるが、これは誤りである。科学は本質的に技術なのだ」という池田の理解は、間違っている、と、私は思う。技術と科学は同じと考えるのは、日本独自のユニークな考えである。
この根拠は、言わずもがなだが、この理科系スレッドで私が以前書いた、科学論者のスティーブ・フラーの文章である。フラーが述べるように、科学(サイエンス)と技術(エンジニアリング)の違いを付けない日本人学者の考え方は、欧米の正統派の科学者の考えとはズレている。なので、日本人学者達は、「まともな科学者」とは、欧米では認識されていない。
「技術と科学は同じ」と考えるのは、近代学問を欧米から最初に学んだ際の、東アジア人独自のユニークな思い込みである。フラーが力説するように、最初は欧米の「お雇い外国人学者」達は、科学(サイエンス)の背後にある思想的な裏付けを、日本人に教えてようと尽力した。が、日本人学者達はそれを頑固に受け入れようとしなかった。そのままで今に至っている。だから池田のような考えが、今の日本の正当な考えと認識されているのだ。私はそのように考える。
池田信夫は東大経済学部出身の、典型的な「日本人エリート知識人」であるため、見事に上の、「日本人学者の伝統的な考え方」に染まっているのだ。なかなか趣き深いものである。
前の私の文章で書いたが、フラーと同じ認識を村上陽一郎も持っており、村上の本にも書かれている(筈だ。私は読んでいないが)。村上は日本人学者が欧米学者の認識とズレている事実を、おそらくは物理学者の柳瀬睦男(上智大学の元学長)から学んだのだと思う。
柳瀬は、終戦直後に東大物理学科を卒業した。優秀な学生で、先生の茅誠司は自分の研究室の後継者として東大に残るように説得した。が、柳瀬は茅誠司の誘いを断り、イエズス会の牧師として神学の研究に進んだ、という、極めてユニークな経歴を持つ。柳瀬のユニークさは、牧野富太郎を遥かに超えている。
その後に、上智大学に物理学教室が設立される際にあたり、柳瀬はその責任者となるようにイエズス会から依頼された。柳瀬は、イエズス会の援助によりプリンストン大学に留学した。物理の研究に10年ほどブランクがあった柳瀬が、プリンストンで研究テーマとして選んだのが「量子力学の観測問題」だ。この分野で柳瀬は日本の第一人者とみなされている。
私の推測だが、池田信夫は柳瀬から直接、「量子力学の観測問題」に関する講義を受けている筈だ。池田が時々ブログで触れている物理の話は、柳瀬の研究内容そのものだからだ。
柳瀬はプリンストン時代に、ウィグナーというノーベル賞物理学者から直接学んでいる。プリンストン(高等研究所)には、他にもオッペンハイマー、パウリ、ディラック、アインシュタインなどの、超一流の物理学者が集結していた。彼ら超一流の物理学者達を離れて観察しながら、柳瀬は、フラーと同じ考えに至ったのだろう。私の推測だが。帰国した柳瀬は、その話を、村上陽一郎に繰り返し話て聞かせたのだと思う(村上は柳瀬が帰国した直後に、上智大学の柳瀬の研究室に在籍し、柳瀬から直接学んでいた)。
村上は東大駒場の池田の先輩に当たる人物だが、書く内容がアレなので、その真意が他人に正しく伝わらないのだ。折角、柳瀬から優れた考えを学んだのに、これでは全く意味のない事である。東大のレベルも、所詮はこの程度なのか。
相田英男 拝