村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その4)

相田英男 投稿日:2021/05/14 13:03

さて、以下にフラーの論考の引用を続けよう。

(サイエンス ウォーズより引用始め)

 ここで日本の読者の方々に強調したいのは、西欧においていまだに、科学と技術の間に、大きな文化的な区別があるという事である。もちろん過去150年間にわたって、科学は新しい技術の発展の手段となったし、技術は常に科学的な探求に、インスピレーションを提供し続けてきた。しかし(西欧では)、科学史と技術史はいまだに別物であり、そこで研究に着手する際の動機は、その研究業績が科学史に属するのか、技術史に属するのかを決定するにあたって、最も重要な鍵なのである。

 このことを端的に示すよい例は、98年3月に日本で行われた、科学・技術・社会に関する国際会議である。これは「科学と社会の技術化」をテーマにした、STS(科学・技術・社会研究)国際会議であり、村上陽一郎国際基督教大学教授を運営委員長とし、官・民のさまざまな団体の後援・協賛のもとに東京・広島・京都で開催されたものである。ここで私のような西欧からの参加者は、日本の科学論研究者達がどのように、みずからの研究領域を設定しているのかを知る、貴重な機会を得た。

 私がこの会議で学んだことは、日本の科学論の研究者達は、科学・技術と社会との関係について、西欧の研究者達の「標準的な見解」とは、微妙に異なった方法で理解していることだった。ひとつの明白な例の一つは、日本の科学論者達は、マイケル・ファラデーとトーマス・エジソンの両方を、ほとんど同じような意味合いと意義付けをこめて、「科学者」として論じていたことだった。確かにこの二人には、かなりの面で共通点が認められる。二人とも出身は貧しく、正式な教育はほとんど受けていなかった。しかし、両者はその後に実験研究の道へと進み、電磁気学の領域での輝かしいまでの業績を残した。

 しかしながら、西欧の科学史家達は長きにわたって、エジソンよりもファラデーに対して、はるかに強い関心を示してきた。それゆえに、19~20世紀の科学の歴史に関する一般書の中では、エジソンの名前は大抵は省略されている。彼ら二人の間には、こうなるにあたって、二つの点での違いがあることが明かとなる。まず第一にファラデーは、自然の中にある根源的な力を推し量りたいという動機に突き動かされていた。この欲求は、彼の宗教的なバックグラウンドから生まれたものであり、このためにファラデーの研究は、エジソンについて知られているような、ほとんど道具主義的で、実用一辺倒の関心の持ち方に比べて、より啓発的と考えられるのである。

 第二に、ファラデーとエジソンの両者は、自らの研究についての詳細なノートを残している。が、ファラデーの記述は方法論について、エジソンに比べてはるかに深く自覚している。ファラデーの記述は、ほとんど「何でもかんでも試してみる」というやり方をとっているエジソンとは、明らかに異なっている。もし自然科学をコント流に、キリスト教の世俗的な後継者であるとみなすなら、ファラデーの示す精神性と規律は、彼を明らかにエジソンより重要な人物であると思わせるのである。

 ここで私が主張する点は、(西欧における)サイエンス・ウォーズや科学論の中で論じられる「科学」の定義は、西欧で科学が発展してきたやり方、すなわち宗教という確立された権威に対する対抗者としての発展、ということに非常に色濃く影響されているということである。その意味において科学論とは、科学の体制派に対して(のみ適応されるのであるが)の、プロテスタント的な(宗教)改革に類するものといえる。コペルニクスやダーウィンを取り巻いた論争が、往時の権威に挑戦した、われわれ科学論者のさきがけとして、心に思い浮かぶであろう。

 にもかかわらず日本においては、コペルニクスの太陽中心説も、ダーウィンの進化論も、紹介される際には、西欧で起きたような大きな抵抗もなく、比較的容易に導入されたのだった。その帰結として、コペルニクスについてのガリレオ、ダーウィンについてのハックスレイのように、人間と世界との間を科学的に関係付けるのか、もしくは、宗教的に関係付けるのかという、どちらかを選択しなければならないと主張し、英雄的立場に立った人々を、日本の科学の歴史では、必要としなかったのである。この点で、明治期における日本が示した西欧科学の選択的な受容過程は、科学の在り方についての興味深い視点を、我々に与えるものである。

(引用終り)

 相田です。正直、私は、上のフラーの文章に強い衝撃を受けた。フラーはここで、欧米の知識人達が、日本人に対し密かに持っている偏見を、あけすけに語っているからだ。日本では、「科学技術」と極めて一般に、幅広く書かれて、言われている。が、西欧では本来、「科学」と「技術」との間には、もっと明瞭な断絶と格差が存在する。その格差について、日本では無自覚である、と、フラーは主張するのだ。

 西欧における科学とは、中世期までのキリスト教の概念を、長い年月をかけて徐々に置き換える事で発展してきた。コペルニクスの地動説や、ダーウィンの進化論が、受け入れられるまでに、長い時期と議論が必要だったのはそのためだ。しかし、日本では地動説や進化論は、殆ど疑いを持たれる事なく、最初から事実だとあっさり認められて、広く普及した。この違いを、フラーは重要視する。

 エジソンは日本では、西洋の偉人の代表として広く知られる人物である。が、欧米において、エジソンは科学者とは認められず、その評価は低い。それは、西欧では「科学」と「技術」の間に、日本人が意識しない、歴然とした格差が存在するからだ。彼の地における科学とは、宗教の世界で議論された考え(神学)を、現実世界の現象に拡張した概念(方法論)である。世の中の役に立つ、立たない、ではなく、方法論をきちんと提示する事が、重要視されるのだ。この点で、何でもかんでも場当たり的に試してみる事で、成果を挙げた発明家のエジソンは、欧米ではあまり評価されていない、とフラーは語る。

 ノーベル賞物理学者の南部陽一郎が、英語でインタビューを受けた際に、「自分が科学に目覚めたきっかけは、子供の頃にエジソンの伝記を読んだから」と語っていた。それを聞いていた、アメリカ人物理学者は「エジソン?そんなのが日本では読まれているのか?」と、怪訝そうに聞き返していた。その訳は、フラーが教えてくれたように、エジソンの業績は、彼の地では、真っ当な科学の成果とみなされていないからだ、と今の私には、大変腑に落ちる。

8.日本の科学者は、カラー道着を着て戦う柔道選手である

さらにフラーの文章から引用を続けよう。

(サイエンス ウォーズより引用始め)

 一般に知られるように、19世紀後半の四半世紀に、明治政府に雇われて教育・研究面での助言を行った西欧人、いわゆるお雇い外国人達は、彼らを雇った側である日本人達とは、異なる目的を持っていた。日本人の側では、いわゆる「富国強兵」に資するような、防衛力増強を中心とした近代化を目的とし、西欧の技術的なノウ・ハウに興味が集中していた。一方で、ヨーロッパやアメリカからのお雇い外国人達は、西欧の科学の発展に不可欠であった文化的な価値、哲学的な体系、そして、政治的なイデオロギーをも分け与えようとした。実際のところ彼らは、西欧固有の歴史が、全人類の進歩のための模範となるようなものを提供できる、と考えていた。(マルクス主義はこの19世紀的な発想を、おそらく最も強く信奉した20世紀の哲学であろう)

 かくして、このお雇い外国人達は、日本における科学の諸制度の確立にあたり、次のように主張した。世俗化したキリスト教的倫理と、唯物論的形而上学により包含された、リベラルな資本主義的民主主義を伴わないならば、これらの研究に関する諸制度は、機能を十分に果たすことはできないであろう、と。

 これに対して日本側は、経済史家であるアレクサンダー・ガーシェンクロンがいうところの、「後進性の相対的な有利さ」を利用した、巧妙なる懐疑主義をもって対抗した。「後進性の相対的な有利さ」とは、経済発展に遅れて参入する者は、先行者の失敗から学ぶことができる。さらには、技術革新を組み合わせて総合し、自国固有の資源からより、効率のいい代替物を見いだすことにより、有利な立場を手にする、という考え方である。

 ガーシェンクロンの考えは、日本の場合には、知的資源および物質的資源の両方に関して、とてもよく適用できると私は考える。日本では、西欧科学の諸概念を翻訳した時に、それらにまつわる、形而上学的な意味合いを削ぎ落とし、より操作的な概念に創り変えてしまった。形而上学的な概念は、ヨーロッパでは何世紀もの間にわたって、深淵だが結論の出そうもない議論の源となり、実験的な自然探求を妨げて来たのだった。

 このことをよく表す例として、ニュートンが「引力」を自然に存在する現実的な力として導入した際に、他の論者達によって、彼が「神の手」を物理学に導入しようとしている、と受け取られたことがあげられる。日本は、このような議論を回避することに成功した。このこために、西欧各国が「科学革命」を成し遂げた10分の一の時間で、科学を基礎とした世界的な五大技術国に成りおおせた、と、みなせる。

 科学革命は、通常は17世紀に起こったとされているが、1898年の時点で、当時科学的に最先端の位置にあった国家であるドイツでさえも、大学で自然科学を学ぶ学生と同数の学生が、神学を学んでいたのだった。それとは対照的に、ヨーロッパの教育に自然科学の導入を遅らせることとなった、宗教的・階級的な障壁は、日本では何の影響ももたらさなかったのだ。

(引用終わり)

 上の引用では、明治維新後の日本が、西欧の知見を導入しながら、近代化に邁進する過程が、西欧側の視点から述べられている。所謂「和魂洋才」として、日本人の誰もが知っている概念ではある。が、与えた側である西欧の知識人から見ると、日本の近代化の過程に、彼らは、相当な違和感を持っている。その事実が、フラーの文からよくわかる。

 引用文中の「世俗化したキリスト教的倫理と、唯物論的形而上学により包含された、リベラルな資本主義的民主主義」という表記は、私の訳も変なのだが、要するに、「科学を正しく学んで身につけるには、神学に基づく西洋の思想的な背景を、一緒に学ばないと意味がない」、ということだ。「お雇い外国人達」は、最初はそのように考えて、日本人を一所懸命に「指導」した。しかし、日本側は、「思想的な背景」などの受容には、全く関心を示さず、目先の知識や技術ノウハウの吸収だけに、ひたすらに、注力したのだった。

 その様子を間近で見ていた西欧側は、「形だけの、単なる知識として “科学” を学んだ処で、意味は無い。こんな調子では、日本に “科学” が根付くことなど、まず無いだろう」と、たかを括っていた。

ところが、だ。

 日本が近代科学を西欧から学んだのは、先生側の西欧の科学の歴史に比べて、あまりにも短い年月だ。その近代国家としては、よちよち歩きだった日本が、名目上だけではあったのだろうが、大国ロシアを戦争で打ち破ってしまったのだ。その結果は、「えっ?まさかそんな!?」と、教えた西欧側の方が、衝撃を受ける程だった。

 神学的な方法論などに目もくれない日本人が、高度な近代技術を使いこなし、大国ロシアと渡り合う事が出来た。この事実は、科学に対する西欧側の認識を、根本から変えるインパクトがあったのだのだ。だから日露戦争は、世界史の重要イベントの一つとして、記録されることになった。「なるほどなあ」と、私は大いに納得した。

 しかし、彼ら西欧人の日本の科学を見る目は、決して暖かくは無い。神との対話の中から、長い年月を掛けて生まれた方法論が、西欧における本来の「科学」である。そのような「歴史と伝統」の裏付けのない「日本の科学」は、西欧人には、何処かズレており、違和感が拭えないものなのだ。

 彼らの日本を見る視点は、例えるならば、白鵬やその前の朝青龍等の、モンゴル人の大相撲の力士達を、「あいつらは、日本の文化と格式と伝統を知らない」と軽蔑し、悪口を言い続ける、相撲ファンのようなものだ。あるいは、だいぶん以前ではあるが、白一色だった柔道の道着が、国際大会ではカラー化された事がある。そのカラー道着を最初に見た際に、我々日本人が、「何か違うよな」と、違和感を抱いた時と同じだ。そのように私は考える。

 西欧の学者達からみると、日本人の科学者達は、カラー道着を着て試合をする柔道家のような物なのだ。そのような色眼鏡を通じて、西欧人は日本の科学者達に接している。この事実をはっきりと教えてくれるフラーに、私は大変感謝する。受け取り方は、各人それぞれであろう。が、調子の良いおためごかしではなく、我にとって苦い真実を、本音で語ってくれる方が、親切ではないか。ライシャワーや、ドナルド・キーンのような、ニコニコ笑う親日家に見えても、本国に戻ると日本人を散々ケナしまくる、性格の悪い外人達とは、フラーは違う。

 さて、フラーの話が長くなった。ここらで、本筋の村上陽一郎に話を戻そう。要するに村上は、フラーが述べるような、西欧人が日本人科学者達に、強い違和感を持つ事実を、正確に知っているのだ。日本科学者達は、西欧からは「あいつ等は、所詮は、本物の科学者達ではない」という偏見で、ずっと見られている。それが「聖俗革命」で村上が、ひそかに主張する、裏の真実なのだ。

 村上が講演会に呼ばれた際に、枕詞として頻繁に話す内容がある。「東京大学は、日本で初めて出来た総合大学ですが、ヨーロッパの大学と比べて、大きく異なる点が二つあります。一つは工学部を主要な学部として、最初から設置したこと、もう一つは神学部を持たなかった事です。当時の大学で神学部が無かったのは、世界中でも東大だけでした」という趣旨の話である。この話の後で、村上は話題を変えて、その日の講演の主題に移るのが定番となっている。

 私は村上が、毎回この話をする理由が、正直よくわからなかった。しかし今では、村上の考えが良く理解できる。というか、これまで引用したフラーの文の中に、村上の真意が、あまりにも明瞭に、語られているではないか。

「日本の科学者達は、大相撲のモンゴル人力士達や、カラー道着を着て戦う柔道家である」

 この事実を理解していること。これこそが、あの、ふてぶてしいまでの、村上の自信の源なのだ。これに対しカッとなり、「お前も日本人のくせに、よくそんな事が言えるな!?」等と、村上を罵倒するのは簡単である。しかし、我々が村上の主張に、論理的に反論するのは、極めて困難なのも事実だ。キリスト教の文化がない国家で暮らす我々には、日本の国教をキリスト教にするしか、方法は無いだろう。残念な事ではあるが。

 さらには、フラーが語る、「日本では、西欧科学の諸概念を翻訳した時に、それらにまつわる、形而上学的な意味合いを削ぎ落とし、より操作的な概念に創り変えてしまった。形而上学的な概念は、ヨーロッパでは何世紀もの間にわたって、深淵だが結論の出そうもない議論の源となり、実験的な自然探求を妨げて来たのだった」という指摘も、極めて重要だ。

 我々技術屋や自然科学者達が、科学哲学やSTS等の、科学論の文献を読む際に、「こんなまどろこしい、意味不明な議論を、科学をネタにしてやる事に、一体何の意味があるのだ?」と、いぶかしく思う事が必ずある。しかし、科学論者達に言わせると、「 ”形而上的な概念” に基づく、抽象的議論を繰り広げる俺達の方が、“西欧の本来の伝統” に従うのだ」という事になる。「俺達の “形而上学的な議論” が、科学に本来あるべき深い背景を与えているのだ」という、強い自負が、科学論者達の心中にはあるのだろう。

 ただし、私のような、何処にでもいる技術屋が、日本の科学論者達の議論を、冷静に眺めると、「あんたら、そんなに立派な事やってるつもりなん?」という素朴な疑問が、頭の中から消えないのも事実だ。

 我々現場の泥臭い技術者達と、彼らとは、折り合いの付かない筈だ。

(たぶん続く)