村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その3)

相田英男 投稿日:2021/05/13 17:43

6.村上陽一郎の業績をざっくりとふり返る

 村上の本を読むのが苦痛とはいえど、何も読まずに村上について、とやかく言う訳にはいくまい。なので今回、彼の弟子の方々によって書かれた、村上の業績に対する論考集である、「村上陽一郎の科学論、批判と応答」(新曜社、2016年)という本を、私は買った。この本に書かれている、村上以外の方々の文章は、読むのに苦痛は感じなかった。おかげで、村上の業績に関する私の理解は、かなり深まった。よかった、よかった。

 さて、この本からわかったのだが、「科学論研究者」としての村上の業績は、大きく3つに分けられるらしい。①「聖俗革命」の提唱、②「科学史の逆遠近法」の提唱、そして③「安全学」の提唱、である。

 長くなるのもアレなので、手っ取り早く説明を進める。③の安全学について村上は、1998年に「安全学」という著作を書いて、話題になった(らしい)。私はこの本を読んでいない。しかし、私は読まないで断言するが、この本で書かれている村上の安全学は、はっきり言ってクズである。論考に値しない駄文である。その理由は簡単で、村上は2001~2010年まで、原子力安全・保安院の保安部会長であったからだ。当時の原子力安全・保安院は、原発の安全性を管理・統括する国家の最高機関だった。政府は、安全学の第一人者としての村上の力量に期待して、その安全部会の頂点の立場に、村上を招聘したのだ。ところが、運が良いのか悪いのか、9年間務めた安全部会長の任務から村上が外れた直後に、東日本大震災と福島原発事故が起きてしまった。

 村上の提唱する安全学は、日本の歴史上最悪の原発事故に対し、全くの無力だった。その事実が、如実に証明されてしまったのだ。そうだろう?

 村上本人はこの件に対して、後から「慚愧にたえない」とか、「地震に対しては予知できたが、津波については予想するのは無理だった」などと、言い訳を繰り返している。「全くもって、情けないことこの上ない」と、私は思う。

 本来なら村上は、この事実を受け入れて、自分の安全学がなぜ福島事故に役立たなかったのか、その理由を、事故の具体的内容と合わせて、謙虚に振り返るべきである。そして、その反省を加える事で、ブラッシュアップした自らの安全学の研究成果を、新たに著書として発表するべきであろう。しかし、そんなことまで村上は、絶対にやらない。村上の安全学は、所詮は、自分の業績に箔をつけるための、内容の薄いアドバルーンだからだ。

 現実の事故に役に立つとか、役立たないとかは、最初から、村上には関心など無いのだ。「あの先生は安全についても研究して、本を書かれているのか。立派な人だよなあ」と、素人読者を騙せれば、それで良いのだ。

 言い訳にうろたえる村上の様子を眺めながら私は、「神はやはり、世の中の不正をよく見ているものだ」と、しみじみ感心する。

 あと②「科学史の逆遠近法」については、特にここでコメントする必要はない。科学技術の現場に全く関与した事がない、文科系の科学論者達同士の間で、ブツブツと議論していればそれで良い。彼ら以外の周囲には、全く、何の影響も及ぼさない、無意味な考え方である。だからここではすっとばす。

 さて、残る村上の業績は、①「聖俗革命」のみとなった。村上によると、17~18世紀のヨーロッパでは、学問の考え方に大きな変革が起きた。神の存在を前提とした神学を中心とした学問から、神を必要としない自然科学への変革である。村上はこの変革を、神聖な領域から、人間中心の世俗領域に学問を引きずりおろす行為であるとして、「聖俗革命」と名付けたという。これが村上陽一郎の、科学史家としての最大の成果とされている。(らしい)

 さて、副島隆彦の読者の方々は、この内容をどう考えるであろうか?「どっかで聞いた話だなあ」とは、思わないだろうか?

 私は、副島先生の映画評論で「薔薇の名前」を取り上げた文章を思い出す。あの映画評論で副島先生は、「ルネサンス以降の神学者の中から、コペルニクスやガリレイの発見に触れる事で、神の存在を疑う者達が現れはじめた。彼ら進歩的な神学者達は「宇宙を構成するのは神ではなく、数学に基づく法則である」という考えに行き着き、「神は死んだ」と確信を抱くようになる。この時に科学(サイエンス、近代学問)が誕生したのだ」と明確に述べている。この副島先生の考えは、村上の「聖俗革命」そのものではないのだろうか?

 私は副島先生の著作物は相当に読み込んでいるつもりである。それ程親しくは無いものの、電話で何度も話もしている。しかし、副島先生が村上陽一郎について語るのを、見たり聞いたりした記憶は、私には一度も無い。副島先生の先生は、あの社会科学の泰斗として知られる小室直樹である。副島先生の学問の基礎は小室直樹であり、上の「神は死んだ」の考えも、小室の教えによるものだろう、と、私は自然に考える。

 そもそもが、村上が唱える「聖俗革命」とは、例えばクーンの「パラダイム論」のような、科学史上のグローバルな、重要な新発見と言えるのであろうか?敬虔なカトリックの信者であるとはいえ、日本人で海外留学の経験も殆どない村上が、独学でヨーロッパの古典文献を読み込む事で、ヨーロッパの学者達の誰もが気づかなかった「聖俗革命」の概念を独自に発見した、とでも、いうのであろうか?

 そんな事は絶対にあり得ない、と、私は断言する。

 学問の体系が神学から、神を排した自然科学や社会科学に変化した、等という概念は、キリスト教徒である欧米人達には、ごくごく自然な、単なる常識的な概念に過ぎないのではないのか?アジア人である日本人には、ピンとこないであろうが。

 今回の学術会議問題の最中に、高橋洋一などの体制派の知識人達が、村上の事を「科学哲学の世界的な泰斗」と持ち上げていた。しかし、向こうの一般知識人の誰もが知るであろう常識を、文明周辺国の東アジア人に紹介するだけの作業が、「科学哲学の世界的な泰斗」の最大の業績であるとは、如何なものであろうか?全くもって理解に苦しむ私の方が、頭がおかしいのだろうか?

 とりあえず、村上の業績に対する私の理解は、上記の通りだ。ただし、これだけで済ませられる程、村上は、無能な人物では、流石に無かった。これからが、私の本論考の核心となる(筈だ)。

7. 村上は、欧米科学者達が持つ、日本人科学者達への偏見を、正確に理解している

 村上の研究業績については、ざっくりと概略は理解はできた。しかし私の頭の中は、どうにもスッキリしなかった。村上は、あのように業績内容がスカスカにも関わらず、なぜ、エラそうな態度を、今でも取り続ける事が出来るのか?そんなに彼の本を読んだ訳ではないものの、村上の文章の端々には、何ともフテブテしい自信が見え隠れする。そのように、私には思える。

 村上の、あの、不敵なまでの自信の源は、一体何処から来るのであろうか?

 そんな疑問を頭の片隅に置きながら、ネットを見ていた私は、スティーブ・フラーという科学論者の翻訳文を、たまたま見かけた。それほど長くない文章だった。が、私は直感で、「何かある!」と理解した。その文章には、村上が自分の論考で、極めて回りくどく、勿体を付けまくりながら、長たらしく述べる内容が、極めて簡潔に、単刀直入に語られていたのだった。以下には、そのフラーの文章の、翻訳の一部を抜粋して引用し、内容について解説する。

 村上の業績を解説するのに、外国人の研究者の翻訳文を、長々と引用するのは、倒錯しているとしか言いようがない。が、その方が私には、理解と説明が容易であるため、致し方が無い。私は村上陽一郎の、レトリックまみれの、それでいて、内容の方はスカスカの、独特のエキゾチック文章には、可能な限りもう触れたくないのだ。どうか勘弁して頂きたい。

 そのフラーの文章は、1999年にsocial epistemology(社会認識論)という雑誌に掲載された、”the science wars : who exactly is the enemy?” (サイエンス ウォーズ、真の敵は誰なのか?)というタイトルの論文に、記載されている。フラーは1959年にニューヨークで生まれた学者で、アメリカとイギリスの両方の大学で教えているという。

 塚原東吾(つかはらとうご)という、村上陽一郎の数多い弟子のひとりの学者が、この論文の翻訳をネットに挙げている。私はそれを読んで、かなりの衝撃を受けた。ただし、塚原の訳文は、英語が苦手の私から見ても、かなり稚拙だった。引用箇所の一部にもあるが、「19世紀の大学では、自然科学を学ぶ学生と同数の学生が工学を学んでいた」という記載が、どうしても私には、不条理に思えて仕方なかった。それで私は、フラーの英文をネットで調べて、確認した。すると塚原訳では、“theology” を“technology”と間違えていたので「ああ、やっぱりな」と、私は納得した。おそらく塚原は、自身ではなく学生に訳させた文章を、よく確認もせずにネットに掲載したのであろう。

 フラーに興味を持った私は、フラーの著書である「科学が問われている」(産業図書、2000年)という翻訳書を入手して、読んでみた。すると、その最初の日本語版への序文の中に、上記の論文の文章が、丸々転載されているのに気付いた。塚原と同じく、村上の弟子筋の4人の学者が訳したその前書きは、訳は大変正確であった。「ラッキー」と私は喜んだが、嬉しいのは最初だけだった。惜しむらくは、その「序文版」の文章は、学術書を気取った堅苦しい表記になっており、私のような一般人には、かえって難解になっていたのだった。塚原版の方が、訳は怪しげなものの、直訳調で、変に表記をこねくり回しておらず、素人にも理解はしやすい文章であった。

 頭を抱えた私は、よくよく考えた末に、塚原(の弟子の学生?)版を基礎とし、訳が正確な「序文版」の文章と比較しながら、下記の引用文をまとめる事とした。一応、原論文の英文も参照はした。内容の大筋は間違ってはいないと思う。

 さて、引用文の中でフラーが語るのは、科学技術に対する、西洋のオリジナルな考え方と、明治以降にそれを移植された、日本人による考え方の違いである。まずは引用する。

(サイエンス ウォーズより 引用始め)

 いわゆる西欧の大学人 ― 自然科学者ではない西洋の学者達 ― は、一般的に、自然科学に対して二つの見方を持っている。1つの見方は人文学に対応しており、もう一つの見方は社会科学に対応している。

 まず人文学者たちは、技術について、より一般的には、手工業や工芸的な職人的伝統に結びついた知識形態の、広範な文化的意義を理解していない。なので、彼らは自然科学者に対しても「慇懃(いんぎん)なる無視」の形をとっている。今では信じ難いことであるが、ほんの100年前までは、西欧の人文学者たちは、大学の敷地内に実験室ができることを、異様な光景が現れ、騒音や臭いが発生するからという理由で、反対していたのである。

 実際のところこれらの偏見は、1905年に日本がロシアに日露戦争で勝利したこと、そして明治維新政府によって作られた日本の大学には、アカデミズムの中心に自然科学と工学(技術)が置かれていることを、西欧の人々が一般的に知るようになって、初めて実質的に見直された。それにもかかわらず、古くからの人文学的な偏見は、特に政治関係の集団の間では未だに強く残っている。

(中略)

 対して社会科学者達は、一般に自然科学について、社会を合理的に統治するための原則を与えるものとして言及するだけでなく、自らの学問上のモデルを提供するもの、と見なしている。

 ここで、「実証主義」と「社会学」という両方の語を発案し、自然科学が世界の秩序を与える源泉として、カトリック教会に置き代わるべきであると主張した、オーギュスト・コントについて想起するのは、有意義であろう。コントの著作は19世紀初期に書かれたが、科学に対する彼の「神聖不可侵なもの」といった見方は、二十世紀末の今日でも継続している。

 科学社会学の創始者としてしばしば言及されるロバート・マートンは、事実上は一度も、科学研究が実際に行われている現場を観察していない。むしろマートンは、過去の傑出した科学者と哲学者によって与えられた科学という営みの説明を、一般化したのである。しかしこれは、宗教社会学を研究する際に、もっぱら神学者や聖人達の証言のみを根拠としていることに近い。社会科学者にとっては、自然科学の営みについて社会科学的に研究することを伝統的に渋って来た。その理由は、その種の研究から得られる知見が、彼らの「科学者」としての身分そのものに影響を与えかねないからである。

(引用終わり)

 相田です。上の引用文については、そのままの概略を理解していただければ良いだろう。私が最も注目したのは、フラーが日露戦争に触れている箇所である。副島先生がかねてより言われているが、西洋側から見た「世界史」の中で、日本が初めて登場するのは、20世紀初めの日露戦争が最初である。それ以前の江戸時代、室町時代、諸々、における日本の存在は、西欧から全く無視されているという。上でフラーは、その意味を説明してくれているのは、非常に興味深い。日露戦争の日本の勝利は、科学史上においても、エポックメイキングな出来事だったのだ。

 日本の近代科学は、明治維新後に西洋からの指導を受けて広まった。しかし、僅か50年程度の年月により、日本は大国ロシアを打ち破る程の、技術力と産業力を備えるに至った。その事実に西洋側はショックを受けた、とフラーはいう。しかし、これを読んで、「おお、日本がロシアに勝った事が、向こうではそんなに大事件だったのか。思っていたよりも、日本は西洋に評価されているんだな」とか、思った方は、早とちりのし過ぎである。フラーの話は、そんなに日本人に甘くはない。

 もう一つの重要な記述は、オーギュスト・コントの「自然科学が世界の秩序を与える源泉として、カトリック教会に置き代わるべきである」との考えを、フラーが引用している点だ。西欧における自然科学は、宗教に代わる社会規範として広まったという経緯が、重要であると、フラーは主張する。

(続く)