学術会議とは「科学の体制化」に抗うための組織である

相田英男 投稿日:2020/11/04 07:25

相田です。

「科学の体制化」という言葉がある。科学史家の広重徹(ひろしげてつ)が使い始めた用語だ。

日本学術会議が創設された終戦直後には、共産党を中心とする左翼勢力は、次のように語っていた。日本の戦前の国家体制は、封建的で古いものであり、科学の価値を十分に理解出来ていなかった。一方のアメリカは、進歩した民主的な国会体制であり、最先端の科学の力を引き出せていた。その科学力の差により、日本は敗北した。日本はこれからは、開かれた民主国家となり、科学を正しく普及させる事で、人々の生活は豊かで幸せなものになるだろう、と。これは武谷三男の当時の主張そのものである。

広重は武谷三男の弟子の一人だった。が、ある理由から武谷と決別する事となる。武谷達の上記の主張に対抗して唱えた広重の説が、「科学の体制化」である。日本政府は戦前の軍国主義体制の頃から、戦力増強を進める上で、科学の発展が極めて重要であると認識していた。あくまでも必要と認めた分野にだけ、ではあるが、戦前の日本は科学技術の開発を、積極的に支援していたのだ。

敗戦により、日本の科学技術体制は一旦崩壊するものの、「逆コース」以降の経済成長の過程で、最先端の科学技術が再び必要とされていた。終戦直後からしばらくの間は、石油化学合成プロセスや原子力が注目され、その後は、半導体や情報通信技術が重要分野となった。結果的に科学は、戦後日本が経済成長を遂げる際に、政府や産業界(共産主義者の広重は独占資本体と表記する)の必要性に応じて、積極的な貢献を果たして来た。そう認めざるを得ないだろう。すなわち、科学の発展は独占資本体の意向に従属するのだ、という広重の結論が「科学の体制化」である。

「科学の体制化」は、武谷等の前代の左翼科学論者達の楽観的な予想に、冷や水を浴びせる物だった。広重自身は優れた物理学者でもあり、若い頃は科学の進歩に大きな夢を抱いていた。「科学の体制化」を纏めた著作「科学の社会史」(1973年)を出版した広重は、その後は「科学の体制化」を乗り越える方策を検討する筈であった。が、その数年後に広重は、癌のため40代で亡くなった。

私の手元にある「科学の社会史」の後半には、日本学術会議が成立するまでの過程が、広重により詳細に書かれている。本の全体の内容からすると、その箇所は詳しすぎてバランスが悪い。巻末の解説を書いている吉岡斉も「学術会議の成立過程が必要以上に長い」と述べている。そのために後世の我等は、学術会議が成立する経緯を良く知る事が出来るのだが。

広重が、絶筆となった自著の後半に、学術会議の成立について、詳細に記した理由は何故だろうか?と、私はずっと考えてきた。今回の騒動を振り返りながら、私はおぼろげながらも気付いた。

広重は、学術会議という組織が、「科学の体制化」に抗う集団になる事を、期待していたのだ。

当時であっても、現実の学術会議は、広重が望むような組織ではない事は、十分に明らかだった。しかし広重には、「設立当時の学術会議が掲げた、理想に燃えた思いをもう一度皆で思い出せ」という僅かな願いが、あったのではなかろうか。私にはそう思える。

私が、村上陽一郎の論考に怒りを感じたのは、村上がそのような広重の意向を、全くかえりみない人物からだ。村上は広重の考えを十分に理解している筈だ。にもかかわらず村上は、意図的に、広重の主張を無視を続けるだけでなく、学術会議を貶める、学者とは到底思えない無内容な主張を繰り返している。その理由は、村上陽一郎とは、広重徹と、その師にあたる武谷三男の主張を封じる事で、「科学の体制化」を推し進めて恒久化する事を目的として、東大が育てた御用科学史学者の筆頭であるからだ。

私が思うに、学術会議の会長は、「我々の目的は、科学の体制化の現状に対して、政府と経済界に再考を促すことにある。もっと市民に密着して役に立つ科学を検討すべきと考える」と(声高ではなく、控えめに。そうでないと潰される)訴える事だ。学術会議に対する周囲の見方も、少しは変わるであろう。

相田英男 拝