参考<「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男>

1094 投稿日:2016/04/23 07:13

参考
http://www.fitweb.or.jp/~taka/Nyadex.html

「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男(「猫々だより140 2015.2)

 吉本隆明『「反原発」異論』(論争社)を読んで、その刊行の意義はじゅうぶん認める。けれど同時に、なんか嫌な感じもした。
 副島隆彦の「序文」は、「反原発」を〈正義〉と錯覚する倫理的反動を真っ向から批判している。しかし、原発(福島第一原発事故)を〈踏み絵〉にしている点では、「反原発」を主張する人たちと同じだ。わたしは、それに反対である。あの東日本大震災と福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人々のことをおもうと、とうてい副島のように言えないと思うし、また〈事態〉に対して無力だからだ。こういうことは〈面々の御はからい〉がほんとうなのではないのか。
 たとえば、遠藤ミチロウは福島県の出身で、震災以降は、救援のコンサートを企画したりしている。彼が仮に「反原発」の立場にあったとしても、それは当然だとおもう。そうだったとしても、彼は吉本隆明を尊重する気持ちを少しも失っていないことは、先のNHKの番組(「戦後史証言プロジェクト 吉本隆明」)をみても明らかだ。吉本隆明が存命だったら、遠藤ミチロウの活動を励ますことは疑いない。
 「原子力」に対する基本的な認識と「原発事故」とは微妙に位相が違うし、その全体の構造は多岐に渡っている。それを是か非かの一点に集約して〈踏み絵〉にすることはできないはずだ。
 原発の事故に〈責任〉があるのは、誰がなんと言おうと〈政府〉と〈電力会社〉であり、地域住民はそれに対して、どんな立場をとろうと〈自由〉なのだ。そして、原発の設置や再稼動は周辺住民の〈直接投票〉で決すべきだと、わたしはかんがえる。そんなことは、今の状況では実行されることはないとしても、それが国家を開くということだ。
 それに、この大将(副島)はご立派なことに、「弟子」を従えているとのことだ。吉本隆明は「弟子」など一人も持たなかった。むろん、わたしなどそういう器量は初めから持ち合わせていない。

 「それでも原子力の研究を続けねばならない」と吉本が書き続けたので、吉本隆明の熱心な読者及び吉本主義者だったものたちまでが、吉本のこの考えに距離を置いていった。その代表は糸井重里氏と坂本龍一氏だと私は考える.
                 (副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最後の闘い」)

 「それでも原子力の研究を続けなければならない」というのは、揺るぎない〈基礎〉的な科学的真理である.
 しかし、どうして、吉本思想の「背教者」として糸井重里を挙げるのか。わたしはこの発言に強い違和感を覚えた。
 糸井重里は、評論家でも思想家でもない.吉本隆明との関係でいえば、年齢の離れた友人みたいなものである。遠くからみていても、糸井重里は昭和女子大学人見記念講堂での「芸術言語論」という大規模な講演会の開催や、『五十度の講演』を刊行して、晩年の吉本隆明を応援してきた。多少やりすぎに見えたことはあるけど、〈善意〉の人というべきだ。その糸井重里をここで槍玉に挙げるのは、絶対に不当である。
 また、坂本龍一は音楽家で、もともとお坊ちゃん育ちの、極楽トンボなのだ。いまさら取り立てていうほどの存在ではない。どうしてもそういう人物を挙げろと言われたら、わたしなら芹沢俊介などを挙げるだろう。
 そもそも、誰が吉本隆明(その思想)と〈距離〉を置こうと、〈背反〉しようと、その人の勝手であり、そんなことは、本質的にどうでもいいことである。なぜなら、じぶんにとって、吉本隆明がどんなに重要な〈存在〉であるかが問題なのだから.
 そういう点で、副島の「吉本隆明は、敗北し続けた日本の民衆の、民衆革命の敗北を一身に引き受けて死んでいった悲劇の革命家だ」という総括に全面的に同意するとしても、その発想は党派的思考でしかない。それは政治から宗教にまでまたがる、あらゆる宗派思想の止揚をめざしてきた吉本隆明の全営為に〈逆立ち〉するものだ。それら全部を「吉本主義者」という倒錯の言葉が表象しているといっていい。
 だいたい、この本の編者も含めて、六〇年安保闘争、「反核」運動、オウム真理教事件、福島第一原発事故というふうに、象徴的なことがらを捉えて、「悲劇の革命家」といっているけど、わたしはそういうところだけで言うのは〈一面的〉だとおもう。
 吉本隆明が真に〈革命的〉な思想家であったのは、言語表現論や共同幻想論や心的現象論をめぐる〈体系的構築〉は言うまでもなく、晩年の負けると決まっている〈老い〉との闘いを最後まで止めることなく身をもって〈開示〉しつづけたことをはじめ、オウム真理教事件のことを言うなら、同時期の阪神大震災に対する的確な〈分析〉なども抜かすことはできないはずだ。そういう〈切実な課題〉に真向かいつづけたところにある。
 もちろん、ろくに読みもしないで、出鱈目なことを言いふらしたり、じぶんの限界を棚上げし、世論の動向に迎合して、吉本隆明を中傷する輩はごまんといる。だから、姜尚中みたいな連中と〈闘い〉は終わることはないのだ。

 この『「反原発」異論』に収録されているものと、「編者あとがき」で紹介されているもののほかにも、大阪で行われた「ハイ・イメージ論199X」(1993年)の講演の後の質疑応答がある。
 吉本隆明は、明確に〈敵〉(わたしにそう語った。その党派性を否定していたからだ)と位置付けたうえで、「デス・マッチをやってもいいんだぜ」というふれこみのもと、いつもそうであるように〈単独〉で臨んだのである。
 吉本隆明はどんな場合でも、講演会の主役はそこに集った〈聴衆の一人ひとり〉であるという原則を持っていたからだ。
 そして、次のように質問に答えている。

 それから核エネルギーのことですが、これはなかなか確定的な論議がしにくくて、僕も確信を持っていえないけれど、エネルギー産業だけでなく学問も技術も実際の工業も、一般的に科学技術的なものは全部、少ない費用で多くのエネルギーを得られるもの、より安全でより精度の高いものを科学技術が生み出せば、今まであった産業は衰退してしまう。これが自然科学や技術の趨勢というか、一般てきなあり方だと思うのです。だから原子力エネルギーよりも効率的で公害が出なくて、あらゆる面でこれより良いエネルギーの取りかたが可能になれば、原子力発電というものはひとりでに衰退して行くだろうと思います。仮にいくら核エネルギーに固執しようとしても、より経済的でより安全なやりかたが生まれてくれば、原子力発電みたいなものは直ちに衰退に向かうだろうと思っています。

 だから核エネルギー肯定論者でもなんでもないですけれど、科学技術というのはもっといいものを必ず生み出します。蒸気機関車から段々進んできましたし、石炭から石油になったようにエネルギー問題も段階が進んできました。必ずいいものはできますから、ある期間だけ日本は40%使う、フランスは99%使ってるというふうになってますけど、それは危険でもありますけれど、技術者がものすごく気をつけて、反対する人がその情報をよく疎通させて、少し危ないとすぐ指摘できるようなシステムを作っておけば、ある程度はそれでやれるし、止むを得ないこともあるんじゃないかと思いますから。
 僕は核エネルギーに対してやみくもに反対していないことは確かです。そういうこといつでも怒られています。「あいつはけしからん」といつも怒られています。危険なことをわざわざやらせるわけでもないし、やらせる立場でもない。僕が云って別に何が変わるわけでもないですけれど、自分の経験と考えではこういうことです。
         (吉本隆明「ハイ・イメージ論199X」質疑応答)