三角関数が解けても、優越感とか誰も持たないよ

相田英男 投稿日:2019/01/09 20:52

相田です。

年明けから、どうでもいい的な話が続くかもしれませんが、橋下徹が「三角関数はいらない」と主張しているのについて、気になって読んでみました。彼の主張の最初の方だけ引用します。

(引用始め)

僕は大学生の頃は天皇制に反対だった。少し本を読みだした大学生にありがちな、青臭い頭でっかちな理屈を基にしてね。いわゆる大学という狭い世界に閉じこもったり、本を読んで知識を持っていることが立派だと勘違いしたりした者が、世の中を語るとおかしな方向に行ってしまう典型例。

そういうインテリ連中の多くは、国民のことを「大衆」などとバカにし、国民の感覚で政治を行うことを「ポピュリズム」と批判するけど、教育レベルがある程度高い国においては、自分たちは賢いと信じているインテリたちの感覚よりも、国民大多数の感覚の方が賢明なことが多い。

お正月にAbemaTV「NEWS BAR 橋下」のスペシャルで教育が話題になったときに、「三角関数なんて大人になってから使ったことがない。国民全員が絶対に学ぶべき義務教育と、さらに深く勉強する教育は分けて、後者は選択制にすればいい」旨、僕は発言し、その発言概要がネットで出回った。

そしたら僕を批判する連中が、世の中で三角関数は使われている! 建築、建設の現場で三角関数は使われている! 俺は料理をするときにも三角関数を使っている! 人生の選択の幅を広げるためにも三角関数は必要だ! 三角関数くらい人間の教養として必要不可欠だ! なんて喚き始めた。

中には、難しい数学の世界や物理の世界の話を持ち出して来て、「俺は三角関数を知っているからこういう話の面白さを理解することができるんだ、凄いだろ?」とその道のプロの学者でもない一般人が悦に入っているものも多くあった。

この人たちの話を聞くと、あー、三角関数を知っていることで優越感を持ちたいんだな、と感じたね。

三角関数が世の中で使われていることくらい、知ってるよ。僕が番組で発言したのは、「三角関数は世の中で生きて行くために絶対に必要不可欠な知識じゃない。国民全員が深く知っておくべき知識ではない。興味がわかないなら、無理やりやる必要はない。授業内容を理解できないまま席に着くことは拷問以外の何ものでもないし、三角関数ができないくらいで劣等感を抱く必要もない」ということ。

今回、「三角関数は、国民全員が絶対に勉強しなければならない!」「これくらいのことを知らなければ恥ずかしい!」と叫ぶ人たちの姿をみて、僕は「あー、こういう人たちは世の中のことをほんと知らないんだな」とつくづく感じたね。

三角関数なんか深く知らなくても人間的に立派な人、仕事を成功させている人、人生を謳歌している人たちはたくさんいる。むしろ、ここで三角関数は絶対に必要だ! と喚き散らしている人たちよりも、仕事面でも、収入面でも、生活面でも人生充実していることの方が多いんじゃないか? 僕は自分の人生の中で、そういう人たちをたくさん見てきた。だから「人生において三角関数は絶対に必要不可欠な知識ではない」と断言できるんだ。

ところが、一部狭い空間だけで人生を過ごしてしまうと、そういう人生の充実者に出くわすことが少ないのか、三角関数が絶対的なものになってしまうんだろうね。そういう知識を持っているか否かで優劣が決まってしまう世界しか知らなければ、なおさらだ。

(引用終わり)

一見して、私には、何を言いたいのかよくわからなかった。何度か読み返して、印象に残ったのは、次の箇所だ。

(引用始め)

今回、「三角関数は、国民全員が絶対に勉強しなければならない!」「これくらいのことを知らなければ恥ずかしい!」と叫ぶ人たちの姿をみて、僕は「あー、こういう人たちは世の中のことをほんと知らないんだな」とつくづく感じたね。

(引用終わり)

こんな人達が本当に、世の中に大勢いるのだろうか?私は技術屋だが、「三角関数を知らない人はバカだ」などと思った事は、これまで一度もない。私は数学が元々得意では無かったが、その私でも、高校の三角関数は理解出来た。三角関数が理解出来なくて劣等感を抱いているなら、その人は、先生の教え方が単に良く無かっただけだと思う。その周りにいる人々が、数学の理解に協力的で無かっただけだ。劣等感を持つ必然性など全く無い。

私の実感として、理科系を生業とする方々で、三角関数レベルの数学を日本人の誰もが理解するべきだ、などと思うのは、誰もいないのではないか?普段からそう思っているので、橋下が上のように喚いても、「何じゃソリャ」という違和感しか、私には持てない。

橋下の議論は、現実に存在しない論争相手を仮定して、無意味な理屈を展開する事で、自分を正当化しようとしているだけだと思う。武谷三男という有名な物理学者がかつていた。武谷は、ルイセンコというソビエトのインチキ生物学者の主張を正当化しようとして、昔、他の学者と論争になった。その詳細を書いた伊藤康彦氏の著作によると、相手を論破する際に武谷は、相手が言ってもいない論点を持ち出して、それを否定する事で、相手を貶めるという反則技を、度々使っているという。

今回の橋下の三角関数否定論も、存在しない相手の、架空の主張をデッチ上げて、それを論破する事で、自分の存在感を煽っているだけでは無いのか?

三角関数は高校で習う内容なので、義務教育の課程では出てこない。しかし、高校数学の内容から三角関数を削ると、一体、数学の時間では何を教えれば良いのだろうか?高校では、数学そのものを選択科目にするしかないと思う。数学が苦手な高校生は、習わなくて良くなるだろう。そうすると、英語の苦手な高校生は英語をやらずに、社会の暗記が嫌な高校生は社会をやらなくなるだろう。

しかし、高校の科目を全部選択制にするなら、そもそも、何のために高校に行く必要があるのか?高校に通わずとも、専門の塾とか語学学校などに通って、個別に単元を学べば、それで済むのでは無いのか?橋下の主張は、高校教育の否定にしか私には思えない。私の誤解なのだろうか?

要するに、中学の義務教育を終わったら、あとは自分で必要に応じて好きに学べば良い、という事だ。しかし、それならそれで、中卒の学歴者であっても、生活に不自由なく仕事に就いて、家族を末永く養って行けるような、社会の仕組みを今の日本で作るべきだ、と私には思える。

そんなことまで、橋下はちゃんと考えてくれているのか?元政治家として責任を持てるというのか?。

高校で教わる内容にわからないところがあっても、そんなにも無駄なのか?誰もがそれで、たまらなくストレスを感じるのだろうか?世の中にある様々な学問の、入口だけでも覗いて見ることで、現実世界と精神世界の広がりと関係性を、何となく感じるだけで良い。それだけでも後の人生に十分役に立つのではないのだろうか。内容が理解出来なくとも。職業に結びつかない知識は、全て無駄だから切り捨てろ、とは、私には思えない。

一見合理的な主張に思えるが、橋下の主張は、誰もが与えられている均等な学びの機会を剥奪するものでしかない。他の方も書かれていたが、橋下は、社会に存在する貧富の格差を固定する危険主義者である。原発推進を主張する私が見ても、そう感じる。

相田英男 拝