[999]鎌倉仏教の謎を解く 第二回

田中進二郎 投稿日:2012/06/28 04:40

「 鎌倉仏教の謎を解く」(前回990の続き)

関連する主な出来事年表
1192年  1月 源 実朝生まれる。 3月後白河法皇死去。 7月源 頼朝征夷大将軍に任命される。慈円延暦寺座主(ざす)となり、宗教界のトップにつく。前年に九条兼実は関白に就任。
     (源頼朝 45歳 北条時政 54歳 北条政子 35歳 後鳥羽上皇12歳 法然59歳 
     九条兼実(くじょう かねざね)44歳 慈円37歳 親鸞19歳 源頼家10歳)

1195年  6月 奈良の東大寺の再建供養式が頼朝、後鳥羽上皇らの参列のもとでおこなわれる。    
頼朝3ヶ月在京する。
1198年  法然「選択本願念仏集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)著す。     
1199年 1月 頼朝死去。頼家が後を継ぐ。 4月 頼家の親政が制限され、北条時政が13人の御家人による合議制を定める。
1201年  親鸞、慈円の下を去り、法然の弟子となる。
1203年  9月幕府有力御家人で頼家の義父、比企能員(ひき よしかず)討たれる。北条時政・
      政子親子、頼家を伊豆の修善寺に幽閉。
1204年 実朝、坊門信清(ぼうもん のぶきよ)息女と結婚。
1205年 3月「新古今和歌集」なる。幕府有力御家人 畠山重忠(はたけやま しげただ)討たれる。
1206年 (モンゴルでチンギス・ハンの即位)
1207年 法然 土佐に、親鸞 越後に配流される。
1213年 和田合戦、和田義盛(わだ よしもり)敗死。北条義時(よしとき)が執権と侍所を兼任
実朝、藤原定家(さだいえ)より、相伝の万葉集が贈られる。このころ金槐和歌集(きんかい わかしゅう)がなったとされる(金は鎌倉、槐とは槐門(だいじん)の意味で、鎌倉右大臣実朝の歌集の意味だそうだ。)                                      
1218年  12月、実朝右大臣になる。 
1219年  1月実朝、鎌倉の鶴岡八幡宮にて暗殺される。 6月京から九条            頼経(よりつね)が鎌倉に迎えられる。(九条兼実の孫)
1220年ごろ 慈円「愚管抄(ぐかんしょう)」を著す。
1221年   承久の乱。後鳥羽上皇軍、北条氏率いる幕府軍に敗れる。    
1225年   慈円死去。
(日本の歴史「武者の世に」 集英社を主に参考にしました。)

(これよりその1の本文)
慈円(1155年~1225年)という人物について、日本史研究家はあまり注目してこなかったらしい。というのは、摂関藤原家の血をひくエリートであったせいで、判官びいきの日本人に受けが悪かったからだ。源義経の生没年を調べると、1159年~1189年で義経の生きた時代と前半生は一致している。それゆえに義経伝説の裏に隠れて不人気であった時代が長く続いた。たとえば慈円の和歌は百人一首の中に入っている。
「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わがたつそまに 墨染めの袖」
(身の程知らずの私であるが、この世の民をおおってやることにしよう。
私の立つ比叡山の墨染めの衣でもって)
この一句には慈円の為政者=宗教界の支配者としての意気込みが歌われているのであるが、多くのひとびとはカチンときてしまうらしい。「なんて傲慢なやつなんだ。」と。

だがそれは権力者、上流階級、栄達をきわめた人間=悪という図式でしかものをみることのできない間違った歴史認識である。そのくせ判官びいきの人間には、「弱いけど本当は血筋の良い人(貴種)」に対する憧憬(しょうけい)がいつもある。素朴で・頑固で・単純な人間の特質である。

一方、和歌が好きな人間で、源実朝の金槐和歌集の素晴らしさにケチをつけたりする人はいないでしょう。「あの暗殺された悲劇の将軍ね」それだけでかなり色眼鏡がついているでしょう。けれども、慈円の和歌が果たして実朝に劣るとはいいきれないのではないか。慈円の歌には、実朝に強烈な影響を与えていたであろう、と思える歌がいくつもあるし、現代でも、くちずさむように歌われていいと思えるようなものがある。

みな人の知りがほにして知らぬかな
かならず死ぬるならひありとは
(新古今和歌集832 無常)これは「メメント・モリ」(死を忘れるな)だ。

明けばまず木の葉に袖をくらぶべし
夜半(よわ)の時雨(しぐれ)よ
夜半の涙よ
(拾玉集)
これなんかは意味はどうでもいいが、明らかに民謡の歌詞だ。イタリアのカンツォーネだと思えばいいんじゃないか?この句の「~よ、~よ」という呼び方は今でも生きている。「浜辺の歌」の原型か、もしかすると?「愚管抄」の中には大和言葉の特徴を論じた箇所もあり、いきいきとした日本語を用いることの重要性を800年も前に指摘している。これは後ほど引用する。
慈円は日本のマキャベリだと思ってかきはじめたこの原稿であるが、芸術の世界をもリードしていっている、慈円の姿をみつけてしまった。

貴族階級の人間は余計なことで神経をすりへらしたり、ニーチェのいうようなルサンチマンに苦しめられることがないから、ダイレクトに言葉を伝えることができる。それを享受する庶民は「自分と同程度の人間だ」という思い込みから、「傲慢な人間だ、いけすかないなあ。」等と言って自分も偉いつもりになってみたりする。それがニーチェのいう小人である。

慈円の「心」を歌ったものには宋学の影響がみられる。(と思う。)宋学は日本ではもう少し時代が下ってから、後醍醐天皇のころに朱子学として本格的に日本に輸入されてくるのであるが、北宋時代の思想家、周敦頤(しゅう とんい1017年-1073年)の道徳的価値の「誠」を唱えた「通書」などを慈円が知らなかったとは想像しにくい。平清盛が行った日宋貿易により輸入された書物を、慈円は経典のみならず、歴史書や道家(どうか)も読んだことだろう。比叡山の想像しがたい冬の寒さの中でも、若き慈円の厳しい修行は続けられていった。

世の中を心高くもいとふ(厭う)かな
富士のけぶりを身のおもひにて (新古今和歌集1614)

厭世を歌っているのですが、志は高いのだといっているのです。次の歌と変わらないですね。
わが胸のもゆる思いにくらぶれば
煙はうすし桜島山(坂本竜馬)
次はごぞんじの方も多いだろう。Go my way! だ。

わが心奥までわれがしるべせよ
わが行く道はわれのみが知る  (拾玉集)

山里にひとりながめて思ふかな 
世にすむ人の心強さを  (新古今1661)

最後の「心強さを」がストレートに響いてきませんか?
新古今和歌集には92首も採られており、西行法師に次いで多いそうだ。そんなこととは
私も知らなかったのですが。今回は和歌の巨匠慈円について書いてみました。 田中進二郎拝