[990]鎌倉仏教の謎を解く
「 鎌倉仏教の謎を解く」(序) 田中進二郎
今年の春吉本隆明氏が逝去されました。副島先生がお通夜にいかれたが、親族のみによる私葬であったため、吉本氏の死に顔を副島先生は見ることができなかった、と書かれてあるのを拝読しました。(重たい掲示板917 3/17日付)
吉本隆明の発言や著書に影響を受けた全共闘世代(今の60代、70代)の人は多い。そういえば尾崎豊も吉本氏の著書に影響を受けていたということをどこかで聞いたことがある。
尾崎豊と同じ護国寺での葬儀がふさわしかったのではないか、とか勝手に思いました。
副島先生の追悼文の後半に「吉本隆明は、他力本願(たりきほんがん)の浄土門の親鸞上人(しんらんしょうにん)の、民衆救済の思想を生きた思想家だ。」とあるのを読み、
「最後の親鸞」「源実朝」などから読み始めました。
今、親鸞の野辺送りを描いた絵(本願寺聖人伝絵)を見ると、多くの僧侶がわんわんと泣いているなかに、数人笑っているような者もおり、面白い。
(絵が送れず残念です。)
親鸞ははじめ9歳のとき、京の青蓮院(しょうれんいん)で出家するのであるが、そのとき得度(とくど)した僧がのちに比叡山の延暦寺の座主(ざす)となる慈円(じえん)であった。慈円は源頼朝が生きている間には頼朝の機嫌をとり、死ぬと後鳥羽上皇の護持僧(ごじそう)になったり、承久の乱の折は上皇の挙兵を何度もいさめようとしたり、政治的に生きた僧である。慈円の父は37年間摂政・関白をつとめた藤原忠通で、兄は九条家の祖となる兼実(かねざね)で摂政、太政大臣の地位にのぼりつめる。
この九条兼実と慈円の兄弟は源氏と結びつきが強かった。源平合戦で平氏が勢いがあるころには二人とも、重用されないが、頼朝が鎌倉に幕府を開くころから、朝廷と比叡山のトップの地位をしめるようになる。またこの二人は文化人として、兼実は「玉葉」(ぎょくよう)という40年にわたる日記を、慈円は「愚管抄」(ぐかんしょう)という書物を残した。
浄土真宗ではあまりこの二人と親鸞の関係に着目しないようである。着目すると政治権力と宗教界の汚いつながりが信徒たちに知られて聖人色が薄れ、具合がよくないからであろう。
具体的にいえば、五木寛之氏(いつき ひろゆき)の近著の「親鸞」も親鸞上人の前半生を描いているが、なぜ比叡山を去って法然(ほうねん)のもとに行ったのかについて、《盗賊に襲われたりしたあと、夕日を見て「あれが極楽浄土だ」と感動し「法然のもとへ行こう」と思い立った。》
こんなところで、この小説は終わるのである。私はばかばかしくって立ち読みで済ませましたが、現在の浄土真宗のトップの人間が五木氏にこの本を書かせたとすれば、なんとなく納得がいく。
これと異なり、「仏教入門 親鸞の迷い」(梅原猛 釈徹宗 しゃく・てっしゅう著 新潮社とんぼの本。親鸞の野辺送りの絵も所収されている。)こちらの本では、親鸞の前半生の謎を梅原猛氏が大胆に解いている。「親鸞は源頼朝の甥」という西山深草氏の論考が十分根拠があるとし、源義朝(頼朝の父)の娘と近江の小豪族日野有範(ひの ありのり)の間に生まれた、と述べています。日野氏は源氏との婚姻関係をたびたび結んでおり、源氏の血を引いている足利将軍家も、その正妻は必ず日野家という慣習があった。(8代将軍足利義政の妻の日野富子が有名ですね。)
ただ近江源氏は日野氏にしても、佐々木氏にしても状況次第で寝返る一族であり、鎌倉北条氏は足利高氏(尊氏)に六波羅探題を攻め落とされたのち、鎌倉に逃げかえろうとしたが、佐々木氏などの豪族の待ち伏せなどにあい、近江国で集団自害していく。 権力交代の際に、東国に落ち延びようとする旧勢力が、古来ここ近江で命を落としていったという歴史もある。(陳舜臣著 「山河太平記」ちくま文庫)
慈円が、のちに親鸞となる8歳の子を自分で得度したのは、源氏の血をひく人間を手元に置いておき、必要なときには政治的駆け引きの駒として使おうと考えたから。という梅原氏の説に私はなるほどそうか、と思うのですが、みなさんはどうでしょう。
ちなみに親鸞が出家したこの年は1181年とされており、源平の戦いでは富士川(ふじかわ)の戦いの翌年にあたる。源頼朝が鎌倉を地盤に本格的に武家政権をつくり始めたころである。
翌年慈円は比叡山延暦寺に上るのであるが、その際親鸞もつれていった。親鸞はその後20年間、法華経などを中心に仏の教えをさまざまに学んだとされる。いったいなぜ親鸞が比叡山を降りることを決意したかということは、一義的にはいえないが、法然の評判は比叡山でもいやというほど耳にしただろうということはいえる。
今回書いてみようと思うことは、吉本隆明の「源実朝」「最後の親鸞」から立ち上がってくる
鎌倉初期の世界像であるが、いかに鎌倉武士団が、律令官人層の盲目的ではあるがまた強烈でもある、精神的、文化的支配を受けていたかということについても書いてみたい。タイトルは愛読書である、副島先生の著書「英文法の謎を解く」をまねることにしました。
田中進二郎拝