[938]福島本部活動日誌です79

吉見 おさむ 投稿日:2012/04/10 20:52

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年3月13日の日誌です。
(一月近く前のことなので、細かなことを忘れてしまっています。悔しいです。)

午前6時40分に起きました。
午前8時半にチェックアウトすると聞かされていたので、一応準備はしていたのですが、なんだかもっと遅くまでいても大丈夫のようでした。
朝、加藤さん、安田さん、Hさん、と適当に話しました。
「陸軍とか、空気で突っ走っちゃったけど、エリートの教育というのは、空気に飲まれないためにある」
「人との広いつながりが出来るのは、左翼のほう。右翼はネットワークが広がっていかない」
「よくわからないといわれた研究が、それからの次世代を支える研究になる」
といった内容でした。私は知識が足りず、ほとんどついていけてませんでした。

午前9時、ビジネスホテルを出発し、浜通りの北部を見に行きました。
途中の国道6号線では、脇の田畑で除塩作業のようなことをしているようでした。

また、国道6号線の脇に、今でもモニュメントのように一隻だけ、漁船が置いてあります。
大体国道6号線まで津波が来た地域が多いらしいです。

やはり国道6号線は、今でもトラックや作業者の往来が多いです。

午前9時45分、新地駅付近に到着しました。
新地駅のあったところよりもやや内陸には、代行バスの待合所として、プレハブが置いてありました。

その近くには、営業しているスーパー、電気のついている土木(?)事務所、がありました。


もう少し新地駅に近づくと、砂利道と壊れた家がありました。多分他にも壊れた家はあったのでしょうが、既に撤去されているようでした。

ここから新地駅までの道の脇には、まだ水の引いていない所がありました。また、瓦礫の分別集積所が至る所にありました。





瓦礫の集積所のショベルカーが動いていました。

午前9時50分、カーナビに新地駅があったと表示されている所に着きました。

(鉄道ヲタ的には、こういう光景は、血が滾って堪らないのでしょうか。それとも悲しくて見ていられないのでしょうか。)
金網、コンクリート、木材、線路の土台、などの駅の瓦礫が分別して置いてありました。








一部の鉄線等が危険な状態でした。

駅舎だったと思われるところは、コンクリートの土台だけになっていました。

トイレだったと思われるところは、比較的建物が残っていました。

線路のレールは、流されてなくなっている所がありました。レールが残っている所や土で埋まっている所もありました。








駅のホームだった所には、駅の鉄柱だったものなどが集積してありました。







新地駅から見える海側の方は、ほぼ湿地のようになっていました。さらに海寄りにある立派な建物は何だったのかわかりませんでした。

新地駅の映像としては、次のようなものがあります。
http://www.youtube.com/watch?v=CH3u3yeWOnE
http://www.youtube.com/watch?v=Tffpo1SVQZw&feature=related

新地駅から国道6号線に戻る途中、かなり奥まで観光バスが入ってきていました。

丁度、JRの代行バスが来た所でした。

もう少し北上し、山下駅まで行きました。
途中には被害を受けたアパート群が、津波後のまま放置されていました。




瓦礫の集積所がいたるところにあり、ショベルカーが動いていました。

ところどころ水の引いていない水田がありました。

土台だけになった家が多かったですが、立派な造りで原型が残っている家もありました。



(←内部は生活の跡がそのまま残っていました)
橋に備え付けられていたガードレールは、倒れていて用を成さなくなっていました。

(←写真で見るより傾いています)

山下駅に到着しました。
駅前の商店には、郵便局が一緒に入っていました。

駅前は津波の影響か、水が引ききっていませんでした。

駅前の建物の2階まで水が来たと聞きました。

山下駅前の自転車置場は、取り壊すようでした。

山下駅の構内は立ち入り禁止となっていました・・・。

駅のホームを脇から撮るのが精一杯でした。

50メートルほど行った踏み切りから撮った写真から見ると、復旧はまだまだ先になりそうです。

更に離れた所にある踏み切りは、レールが見当たりませんでした。

駅前には、応援メッセージや一寸変わった看板等が置いてありました。





NPOの車が一台置いてありました。

加藤さんによると、山元町のこの辺りの風景は、被害を受けた一年前とほぼ同じだったそうです。





いくつかの建物は、津波にも耐え、かなりの原型を保っていました。






とりあえずの補修として、青いビニールシートがかかっている家が多かったです。

道路の側溝の上にあったコンクリートブロックは、少しだけ残っていました。

道路の標識が傾いていました。奥のアパートは、1年間手つかずのようでした。

新しいビニールハウスがありました。

写真は取れませんでしたが、除塩作業中とかかれた看板がありました。
そこの近くでは、美容院が電光掲示板をつけて営業中でした。魚屋もやっていました。


近くには水の引いていない水田がありました。

国道6号線に戻る交差点では、電気工事車両3台が前にいました。

相馬港に行きました。
途中のゴミ集積場は凄い量のゴミになっていました。

以前にNさんに案内して頂いた時とは別の埠頭に行ったのですが、やはり同様の被害を受けているようでした。

太平洋セメントの施設が動いていました。加藤さんによると、ここは震災後すぐに再開できたそうです。

いくつか小型の輸送船も停泊していました。


日本サルヴェージの船がありました。

埠頭の端は陥没していました。

相馬港と松川浦の中間地点は、今でも被害が色濃く残っています。

木々の何本かは役目を果たし、折れたり曲がっています。

建物は土台だけになっています。歩道も所々破損しています。








海水浴場になっていた海岸側は、木、金属、マンホール、コンクリート、パイプ等が散乱しています。




一部の地面が大きく削れていたり、水溜りになっていました。





一箇所大きな水溜りになっていました。

トイレとシャワールームの建物は、前衛芸術の建物のようになっていました。




なお、内部は綺麗になっていました。

マンホールが盛り上がって地中から出てしまっているところがありました。

松川浦のドッグでは、漁船が修理中のようでした。

松川浦では、最初から建て直している途中の家がありました。

南相馬に戻る国道6号線から見える景色は、やはり海側は水が引いていない所がしばしばありました。

午後1時、昼食を食べに南相馬の道の駅に寄りました。

メンチカツ定食とタン麺を食べました。美味しかったです。
お腹が一杯になり、少し吐き気がしました。
タン麺を食べながら、・・・理由は良くわからないのですが、空飛ぶスパゲッティモンスター教を思い出しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/冗談宗教
(なお、上のwikipediaで、井上喜久子さんを教祖?とする17歳教も冗談宗教に分類されることを知りました。)

午後2時、原町で凍み天というお菓子を売っている店に行きました。
私は一個だけ購入しました。110円でした。
事務所に戻った午後9時前後に食べたのですが、温かいうちの方が美味しいと思われます。

磐城太田駅付近の踏み切りは、遮断機の棒が折れていました。
ここまで津波が来ていたそうなので、その影響かもしれません。

磐城太田駅が、新地駅と同じくらいの大きさだったのではないでしょうか。

磐城太田駅から少し陸寄りに入った所に、道の駅で食べたメンチカツを作っている肉屋の直売所がありました。とても安かったです。
かなりの量を、明日の食事のために買ってしまいました。

http://www.higashi-nagasaki.com/anti/minami.html

午後3時にビジネスホテルに戻ると、Kさんのお知り合いの人が居ました。

午後3時50分、Kさんのお知り合いの人と、その人がガイドしていた(ウクライナの)テレビ局の人が来ました。
これから警戒区域に入って、原発付近まで行って、線量を測定するそうです。





安田さんとKさんはタイベックスーツに着替え、警戒区域内に同行しました。



Kさん達を見送った後、横浜から来て除染をしているという会社の人から声をかけられました。
どうやったら警戒区域内に入れるのかを訊かれました。
除染の効果を、警戒区域内で試してみたいそうです。

加藤さん、Hさん、私で、馬事公苑に行きました。北側からの一時帰宅の拠点になっている所です。

馬事公苑入り口付近の道路は、壊れたままでした。

馬房がそばにある広い駐車場には、中型バスが30台ほど停めてありました。
2月中旬から一時帰宅(3巡目)が行われているようなので、それに使われているバスのはずです。
http://www.town.namie.fukushima.jp/?p=10684




「巡廻一号車」や「日常点検表」といった文字を久々に見られて、少し懐かしくなりました。



バス内は、座席等がピンクのビニールシートで覆われていました。
以前に古道体育館で見たバスよりは、覆われている箇所が雑になっていました。

根雪がまだ残っていました。

体育館と思われる建物には、簡易トイレが2箇所設置されていました。
入り口は少しだけピンク色のビニールテープが貼ってありました。


一時立入の注意点、という看板が置いてありました。

馬事公苑から警戒区域に向かう県道34号線の検問所には、プレハブが二つ建っていました。


国道6号線方面に行く道路も封鎖されていました。

ビジネスホテルに帰る途中、「NO TPP」という表示がありました。

また、原発から約22kmのところで床屋が営業していました。

原発から約23kmのところにはボートが置いてありました。津波によるものなのかはわかりません。

午後4時40分、馬事公苑から帰った後のビジネスホテルの玄関では、横浜の除染会社が玄関の除染をしていました。
2.4μSv/hを示していた筈です。

午後5時40分、南相馬から原発方面に向かう自動車の交通量がかなりありました。

午後6時5分、警戒区域内に行った人たちが戻ってきました。

ウクライナのカメラマンは、壊れた建物や放射線の数字よりも、海に感動していたそうです。
「こんな綺麗な光景を、人が全くいない悲しい状況で見ることになるとは思わなかった」と言っていました。

午後7時20分、炊き出しの際に間違って持ってきてしまったお玉を返しに、川俣町農林広場前仮設住宅に寄りました。
帰るときに見たモニタリングポストは、表示されていませんでした。

午後8時40分に事務所に帰りました。
加藤さん達は、その後すぐに高速道路で東京に帰りました。

(転載終わり)