[937]福島本部活動日誌です78
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年3月12日の日誌です。
午前3時に起きて、皿を洗い、机の上を片づけ、朝食の用意として、ご飯だけセットしました。
加藤さんから著書を5冊いただきました。
私個人には、『イラク戦争最前線』(アリアドネ企画)の174ページにある
(引用開始)
「戦争だからといって、眉間にシワ寄せて暗い表情でいたり、悲しみの涙を出しているだけが全てではない」
日本で平和活動に参加していた人たちもすでにそのことはわかっていた。だけど、そういうことがわかったことによって、心の中は複雑になってしまったかもしれない。
現地のことを知らずに「戦争反対」とだけ叫んでいれば正しいと思っていた頃の方が人生は簡単だったのかもしれない。戦闘現場から数十メートルのところに住んでいたイラク人からでさえ「米軍を歓迎する」という声があるのだから、単純ではない。
(引用終わり)
の箇所が大変心に残りました。
これ、戦争を反原発と言い換えても、かなり通じてしまうような気がします。
なお、加藤さんや安田さんのイラクでの活動は、東長崎機関のページに載っています。(http://www.higashi-nagasaki.com/g_a/G53-46.html)
午前8時、ご飯、レトルトのカレー、レトルトパックのちゃんこ鍋、昨日買ってきた牛タンを焼いたもの、大蒜の芽と豚のハツを炒めただけのもの、をお出ししました。
午前8時40分、川俣町の仮設住宅に向けて出発しました。ついでに燃えるゴミを捨てに行かせて貰いました。
ゴミを捨てる時に、警官が看板の所まで見に来ました。
午前9時45分、川俣町農林広場前仮設住宅に到着しました。
コンビニ脇の集会場で、炊き出しの前準備をすることになりました。
途中で、Kさんという方と合流して作業をすることになりました。
集会場には音楽CD、映画のDVD、古い雑誌などが置いてありました。
サッカー雑誌の日付は、震災直前のものになっていました。(下の画像の雑誌は、3/17と表示されていますが、発売日は3/3です)
壁には、川俣地区労働福祉協議会の寄せ書きがありました。
その中に、ネット上のAAである「人生オワタ」があったのですが、・・・これを書いた人に他意はなかったと信じたいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/人生オワタ
私はよくわからなかったのですが、作ったのはキルギスの煮込みうどんのような料理だったようです。
本来はもっと素朴な料理らしいのですが、Kさんが、栄養のバランスを考えて野菜類を加えていました。
午前11時、会場近くの集会場に移動しました。
会場付近に仮設の簡易椅子が並べられました。旗も設置されました。
既に待っているお年を召された方々がいらっしゃいました。
入り口付近には、鹿児島産の飲料水が置いてありました。
建物脇には、三菱商事と川俣町のロゴが入ったアイムーヴが置いてありました。
ここの集会場も、窓が二重になっていました。
集会場の壁に、過去のボランティアの写真や応援の手紙などが貼ってありました。
午前11時50分くらいに大体の準備が出来ました。
午前11時40分、加藤さんとHさんは、演奏をやりだしました。
加藤さんがバグパイプ、Hさんがドラム?でした。
30人ほどのお年を召された方々が、会場の椅子に座っていました
午後0時前後から料理を配り始めました。
私は、麺を更に盛る作業を続けていました。
仮設の職員の方々?が配るのを手伝って下さいました。
午後1時、炊き出しとバグパイプ&ドラム?の演奏イベントは終了しました。
なんだか私はあまり役に立っていない様な感じでした・・・。
イベント後、お世話になった自治会長さんの厚意で、軍鶏を飼育している場所に連れて行って貰いました。
途中で中学生?が下校していました。
かなり山の上で、距離がありました。
小屋の中には、軍鶏が100匹以上いました。
小屋は、原発の事故を受けて、新しい覆いを設置したそうです。
川俣を発って、飯館経由で南相馬に行きました。
途中の飯館村のガソリンスタンドは営業していました。
ここら辺りは、関東の感覚ですと、山越えになってしまいます。
南相馬の役所近くにあったテントでは、震災から1年を祈念する灯火がついていました。
(画像では見にくいかもしれません)
午後3時45分、南相馬の道の駅に入りました。
駐車場は車で一杯でした。
ここにある食堂で食べに来たのですが、既に営業は終了していました。
私は、よつわりという名物らしいパンを購入しました。120円でした。
南相馬の検問所近くのビジネスホテルに泊まりました。
近くにセブンイレブンがあったので、そこのATMでお金を引き落としました。
セブンイレブンの駐車場には、2台の機動隊車両が停まっていました。三重ナンバーでした。
検問所近くの歩道に、陥没している所がありました。
8月8日に10人くらいで食べた食堂は、夜も営業するようになっていました。
検問所には簡易的なプレハブが置いてありました。
明日にかけて検問所を抜けていく自動車を見ていたのですが、原発関連の交通量は、都路の国道288号線とは比較にならないほど多かったです。
午後7時、Nさんと合流して、原町の居酒屋で夕食になりました。
店内には野馬追いのポスターが貼ってありました。
フライデーの名刺や東京都区議会議員の名刺も貼ってありました。
午後9時、南相馬検問所近くのビジネスホテルに戻り、就寝しました。
なんだか私はもう歳なのか、一番早く寝てしまいました。
(転載終わり)