[917]革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して

副島隆彦 投稿日:2012/03/18 02:02

副島隆彦です。 今日は、2012年3月17日です。

昨日16日の朝の2時13分に、思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい)が死んだ。
 
私は、吉本隆明の死を以下のネット記事で知った。この知らせを聞いた初めは何の感慨も湧かなかった。ついに吉本さんも死んだか、87歳だ、と思っただけだ。

 私は、今も吉本主義者(よしもとしゅぎしゃ)である。
 私は、自分が18歳の時(すなわち今から丁度40年前)から、ずっと吉本主義者だ。このように公言して憚(はばか)らない。私は、吉本から多くを学んだから、ウソをつかないで本当のことを書いてきた知識人だ。他の多くのうそつき有名知識人たちとは違う。

 私は、この吉本主義者という、自己規定を隠したことはないしそのように表明してきた。 他の言論人たちで、今、自分の内心に恥じることなく、このように言える者はいないはずだ。 皆、ある時期に、歴史的な事件のあるごとに、吉本を批判し、裏切った者たちだ。

 以下の新聞記事にあるとおり、吉本は、私たち60年代、70年代世代の 政治発言を嫌(いや)がらない政治青年たちに、圧倒的な影響を与えた。 私はこのことを今になっても隠さなさい。吉本隆明の本をついに全く理解できなった、新左翼のくせに、頭の悪い人間たちもたくさんいた。

吉本は、激しい論争をしたとき、かつて書いた。「民衆とは何か。それは、私の本なんか読まない人たちだ。だが、お前の本も読まないよ」 と相手に言った。

(転載貼り付け始め)

●「吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響 」

スポニチ  2012年3月16日 (金) 6時49分配信

■2010年、東京都文京区の自宅でインタビューに答える吉本隆明氏

 文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。

 87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子=よいこ)さん。今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。次女は作家よしもとばななさん。

 1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らの転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。

 既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。

 80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。

(転載貼り付け終わり)

 副島隆彦です。 私は、自分の人生に決定的な影響を与え続けた吉本隆明という人の死に際して、これから書くべきことをすべて書いて公表しよう、と思う。彼の死から丸2日がたって、そのように思うようになった。それは、私一人の思い出話ではない。その内容は、日本国民にとっての公共領域(パブリック・ドメイン)における公共の課題(パブリック・インタレスト)に関わる大事なことばかりだ。だから、すでに ここの学問道場の掲示板の 下の方で予定しているとおり、 来たる6月2日の 「政治思想、政治の歴史 講演会」で、思想家・吉本隆明 のことも しっかり話そうと思う。

 私は、今、不愉快である。むっとしている。
さっき、ようやく新聞各紙の吉本への訃報(ふほう)の記事と追悼コメントをひとおおり、読んだ。それで不愉快になった。 皆、いい気なもんだなと思った。

 どの新聞も一様に、ひとしなみに、「戦後思想に大きな影響を与えた思想家の死」 と横と並びで書いていた。それでおしまい、か。死者を鞭(むち)打つ必要はない、か。あれほど吉本の言論の存在を嫌った者たちが。自分たちの悪の所業を言われることを、いやがった者たちが。

 私は、はっきりと書く。 吉本隆明は、”過激派の教祖”と呼ばれた人物である。そして、本人は、このことをあまり好かなかったと思う。しかし、遠くから仰ぎ見るようにして、吉本の本を熟読し(この40年間で、その冊数、実に300冊を超える)、吉本が話す講演会に機会をとらえて参加した自分がいる。だから、私はそれらの訃報記事を読んで不愉快になった。

 浅田彰(あさだあきら)は、なぜ吉本の死に際して、従来通り、一言はケンカを売らないのだ。
 
 吉本隆明は、たしかに文学者であり詩人であった。本人もそのようにして穏(おだ)やかな渡世(とせい)を一面ではしたかっただろう。だが、吉本の半分の顔は、明らかに革命家の顔でありつづけた。 そして、それは、日本で民衆革命に何度も 失敗した失意の革命家の人生だった。
 
 彼は、この50年間に、おのれの激しい言論のために、事あるごとに、孤立し、保守・体制派どころか、左翼、リベラル系のあらゆる政治勢力からも忌避され、いやがられ、政治言論人としては、おのれの思想と見識を堂々と発表する機会と場を奪われ続けた、日本で一番すぐれた政治知識人(ポリィティカル・インテレクチュアル)だった。 

 この吉本の 深い孤立感と「これでは 自分が筆一本で食べてゆくのさえ、なかなか困難だ」という生活者としての恐怖感を、私はいつも肌身に感じて、彼のそばで見ていた。 

 吉本は、日本共産党や、社会党や、その他の大きな労働組合とか、社会団体とかから、忌避されて、自分の言論の影響力が、なかなか大きく外側に、一般国民のところにまで、届かず、広がらないで封殺されることへの焦燥感と、苛立ちをずっと持っていた。彼の表面の穏やかな物腰の、誰に対しても温和な達観(たっかん)の姿とは程遠いものだった。 革命が挫折し続けたことへの、絶望感をずっと、彼は背負い続けた。吉本の悲劇はいつもそうして有った。私は、ずっと彼のこの姿を目撃していた。吉本は、明らかに日本のカール・マルクスだった。

 いつも大衆のいるところにいて、大衆と共に生きて、大衆の愛するものを愛して生きた人だった、と皆、声をそろえて、彼の死後になって、吉本を形だけ称賛するが、なあ、おまえたちよ。 

 たしかに、吉本が言った「大衆の原像へ向かう生き方」は、私たち吉本主義者の教理(きょうり)の一つだ。「共同幻想の解体」と、「擬制(ぎせい)の終焉(しゅうえん)」などと共に吉本思想の柱を成すものだ。 だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。最近の小沢一郎革命(国民のための無血革命)も同じような感じで、いまにも圧殺されそうな感じだ。 私たちが感じるのは、またしても激しい幻滅と絶望感だ。

 民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けたと、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。

 終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。

 吉本の言論と発言が、あらゆる議論の最中に、圧倒的に強力であり、正当であり、正義であった。 だから、日本の公共言論(商業メディアと体制メディアを含む) は、吉本隆明を心底、毛嫌いし、敵対視し、危険視して、彼が大衆、国民に影響を与えることを、封殺した。自分たちが国民をあやつり、欺き、洗脳し、上から押さえつけている、この国の支配者なのだと、自覚していたからだ。 

 吉本の激しい孤立感と焦りを、私は何度も近くで見ていた。

 吉本隆明は、300冊以上もの本を書いた(対談本や講演記録を含めて)人だから、日本国でもっと正当な評価と、有力な立場を占めるべき人だった。彼は、呼ばれれば(招かれれば)どこへでも行って、どんなことに対しても、「状況への発言」をし、おそらく 国会の場へでも出て行って、そして、その場から、日本国民に、大声て、必死に真実を訴えかけたかった人なのだ。そして国民が自分たち自身のために、決起すべきことを。私には、そのことが痛いほどわかる。

 本がたくさん出ていたから、それなりにも認められていたのだから、それで、いいじゃないか、と冷淡に人々は思うだろう。 それでは済まないのだ。問題は、吉本一個の生き死にのことではないのだ。 

 吉本隆明は、この国で、不当に低く取り扱われた、不遇の言論人だった。そして本当に不遇に終わっていったのだと、私は断言する。

 今はすっかりアメリカの手先になりはてて変質をとげた朝日新聞は、岩波書店もそうだが、吉本隆明に40年間、絶対に、書かせなかった。徹底的に無視し続けて干しあげた。全く発言させなかった。1960年安保闘争のあとから、ずっとそうだった。 以来、52年間になる。彼の言論を、日本のメディアは完全に封殺した。吉本の方が、あらゆる政治問題、社会問題において、発言を拒んだことは一度もない。

 ただひたすら、発言させなかったのだ。 それなのに、吉本が70歳を越して、1996年(16年前)に海で溺(おぼ)れて病気になって、体が弱くなったと見たら、吉本に近寄って、ほんのすこしだけ発言させるようになった。もうそろそろ牙(きば)も毒気(どくけ)も抜けて、自分たちに、襲いかかってくることはなくなったろう、と踏んで。

 本当の 危険思想家であり、生来の 過激派の言論人である吉本の発言を、そのまま全部、はっきりと掲載する商業出版物は無かったのだ、と私は思う。吉本が死んでから、「戦後最大の思想家だった」という献辞を一様に訃報として、新聞各紙は書く。が、彼らこそは、日本の民衆革命を圧殺した側の、張本人たちだ。自分たちが、日本国をあやつる支配者、権力者の側にいることを、彼ら自身はよくよく知っている。その中の、個々の記者や編集者が、自分は 善良であり、善意であり、吉本の思想をよく理解した、などというふりなどしてみても、何の言い訳にもならない。

 日本の戦後もまた、ずっと裏切られた革命と、民衆の生活苦と、喘ぐように生きるサラリーマン大衆の苦しい日常が続いている。自分がいつ会社を首になるか分からない恐怖感の中で、大企業エリート社員たちまでが、脅(おび)えなら生きている現実が続いている。ちっともいい国にはならなかった。

 過激派の教祖として、永遠の革命家(マルクス・レーニン主義者)として生きた吉本隆明が、不遇のまま終わった、というのは、それはそれで当然のことだ、という冷酷な判断も一方でなりたつ。戦いに負けた方の人間なのでありその理論指導者だったのだから。

 日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。どうせ頭の鈍い人間たちなのだ。自分のことしか眼中にないで、ペラペラと話す者たちだ。 この吉本が言った、「敗北の構造」を抱きしめたまま、私たち吉本に後続(こうぞく)する世代までが、無残な夢破れた、あれこれの政治参加のあとの、慙愧の無念の 残生(ざんせい)を生きているのである。

 私は、もっともっと吉本隆明について、彼の死を契機にして、書きたいことがある。追い追い書いてゆく。それに連れ添う一人一人の同時代の日本知識人たち(今や、私の同業者たちだ)への素描や、厳しい評価もこれから書いてゆく。私は、なにごとも隠さないで自分が知っている限りのことを正直に書いて残してゆくつもりだ。

 吉本が死んだ知らせを受けて、私は、すぐに彼の家に行こうと思った。が、親しい編集者から「家族だけで、ひっそりと葬儀をするそうだ。騒がないで静かにしていてほしい」と言われたので、私は、吉本隆明の家に弔問に行く時間を昨日、逸した。 ところがその編集者は、自分は吉本の家に上手に入って、吉本の死に顔を、昨晩、拝んでいるのだ。しまった、と私は思ったがもう遅い。他の編集者たちは、メディアの人間たちと一緒に吉本の家の前で、ずっと昼過ぎまで立っていたという。 

 その人からも話は聞いた。 そして自分の知るかつての吉本主義者たちに、連絡を取ってみた。が、ほとんどは、もう耄碌(もうろく)ジジイになり果てていて、自分自身が、70歳が近くなって、身動きが取れないような状態の者ばかりだ。老いさらばえたかつての活動家たちの姿だ。

 今日17日の夜がお通夜で、明日が告別式(葬式)だと聞いた。どこの斎場で式が行われるのかも、まだ分からないが明日は、私も出かけてみようと思う。

 死者を送る、野辺送りが、「本人と家族の意思で、そっとしておいてほしい」ということであれば、そのようにしてあげるのが、たしかに思慮のある人間の取る行動だ。しかし、本当にそれでいいのか。 吉本隆明の遺体(死体)は、その家族(遺族)のもの(所有物)であるから、その処分の判断に従わなければどうせ済まない。 吉本隆明自身は、「家族葬か、出来れば町内会の主催でやってほしい」と言っていたという。もうそういう時代でもない。

 だが、密葬で、家族・近親だけで静かに執り行いたい、と言われて、はい、それに従います、というだけでは、私はどうも済まない気がする。公人(パブリック・パーソネッジ public personage )には、公人としての 果たすべき役割がある。いくら敗北した民衆革命の悲劇の指導者、革命家の死であると言っても、ひっそりと済ませて、葬儀の場所も公表しない、ということでいいのだろうか。

 すすんで自分も葬儀に参加したい、というかつての吉本隆明の本の熱心な読者たちを葬儀場に受け入れるだけのことは、するべきではないのか。 往年の吉本主義者たちは、今は、もうほとんどが65歳以上のジジイ、婆(ばばあ)たちだ。それを全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)という。 

 そういう人が、まだ少なくても一万人ぐらいは生きている。 私は、今58歳で、吉本主義者の下限の年齢の人間だ。本当に私より若い歳の人間で、過激思想家・吉本隆明に のめり込んだ者はあまりいないはずだ。糸井重里(いといしげさと)と坂本龍一(さかもとりゅういち)でも私より数歳は、上だ。

 社会的に公人(こうじん)の死者の死体(遺体)は、本当に家族、血縁者たちだけの所有、処分物でいいのか、と私は思う。 言論人、作家、芸能人 も民間人であるから、公職にないから、私的な私人としてのひっそりとした死に方を選ぶなら、それでいい。 だが、敗北した民衆革命の偉大な思想家の死 を(そう思う人たちが現に、一万人ぐらいは今もいる以上 )それを、国民的な課題として大きな葬儀が行なわれない、というのは、私は、どうも間違った考えだと、今、思うようになった。

 死んでしまった吉本を、偉大な思想家でしたと、称賛するだけなら、それは口先だけのことだ。ふざけた連中だ。 しんみりとしてみせるだけの、自分が温厚で、世間体(せけんてい)と秩序を大事にする常識人として振る舞いたいだけの 偽善有名人たちの 偽善者の追悼のコメントを、私は、読んで、本当に腹の底から不快がこみ上げた。 

 石原慎太郎というアメリカへの買弁(ばいべん)人間の元文学者 ( 三島由紀夫とは比べ物にならない、愚劣な、反革命の右翼人間だ )までが、吉本を褒めて追悼していた。吐き気がする。どうして、石原は、あれほど毛嫌いしたはずの、敵の吉本を、褒めるのだ。お前は民衆を毛嫌いする反革命なのだ。それが、死者を弔うに当たっての、大人の態度だからということになるの、か。本当に、ここまで悪質な完全な政治人間にまでなりあがったものだ。自己愛しかないくせに。

 今の、ひどい不況下(本当は恐慌のさなか)の日本では、「もう葬式はいらない、戒名(位牌、いはい)もいらない、坊主のお経もいらない、墓もいらない。骨は砕いて草木に撒けばいい(樹木葬)」という時代である。そういう本が、何冊も出て理解者を増やしている。

 ごくごくの近親者だけの、内密の密葬(みっそう)で家族葬だけでやっておしまい、というのは、一般人の場合は、それでいい。もう葬式どころか、家族もいなくて、アパートで孤独死して、死体を市役所の職員が片づけに来る、という死に方が増えてゆくだろう。 だが、吉本隆明までも、そのような貧しい庶民の葬式でいいとは、どうも私は納得がゆかない。 一切の華美で派手な形だけの葬式は、もう贅沢で醜悪なだけだ、という時代なのか。
 
 だが、私は、この考えと風潮に逆らう。そのようにたった今、決めた。
吉本隆明の魂(たましい)を十分に引きずっている私は だからこそ自分の葬式は、公然と、きちんとやってもらおうと思う。今のうちから家族(奥さんと息子)と、それから弟子たちに頼んでおく。これからその手順の希望を彼らに提出する。
 
 自分の死体が、病院から出されたら、そのまま葬儀場(メモリアル・ホール)に運んでもらって保冷剤で冷やしたまま、3日間、通夜と告別式まで、ずっとそこに置いて、棺桶の中の死体を、衆参者に見せるべきだ。
 それが世界基準(ワールド・ヴァリューズ world values )の葬式というものだ。 だから私の場合は、3日間の間、葬儀場に死体があるから、時間の都合のつく人で来たいという人には全員来てもらいたい。そして、そこに、そまつな食事と安い酒をふんだんに準備して、盛大に3日間、宴会をやってほしい。葬儀場は料金さえ払えば、これぐらいは当然してくれる。

 そこには、私の筆で、「ここでは余計な話はしないで、副島隆彦のことだけ話してください。悪口はいくら言ってもいいです。マイクを準備しておきますから、発言したい人はどんどん発言してください 」 と書いて遺しておこうと思います。それが、人が集まってこその葬式(野辺の送り)というものだ。
 
 私は、今、「阿弥陀如来(あみだにょらい)と、観音菩薩(かんのんぼさつ)と、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というこの3人の ”女神”は、一体、何者なのだ。どこから来た人たちなのだ。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)と別人じゃないか。

 本当は、イエス・キリストの奥様だった、マグダラのマリアさまだろう。この2千年間、ウソばっかり、民衆に教えるなよ」という本を書いている。この本は、絶対に夏までに出す。

 阿弥陀さま、観音様に、すがりついて「助けてください。助けてください。私たちを、動物みたいに残酷に扱わないでください」 と、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」にすがりついた、貧しい民衆を、キリストも 釈迦(ブッダ)も 「よし。助けてあげよう」 と、必死で闘った。 ・・・・そして、実は、民衆を救済(サルベーション)することは出来なかった。 

 裏切られた革命だ。 人類の歴史は、そのようにして、ずっと悲しく、みじめに続いて、今に至る。 吉本隆明は、この他力本願(たりきほんがん)の、浄土門 の親鸞上人(しんらんしょうにん)の 、民衆救済 の思想を生きた思想家だ。 

 それに比べて、中国で、7世紀に起きた 禅宗(ぜんしゅう)は、日本にも伝わったが、その本態、本性は、小乗(しょうじょう、ヒーナーヤナ)仏教であり、「民衆の救済などできない。ありえない。自分一人を救済するための修行に打ち込め」という自力(じりき)の思想の、いやらしい エゴイズムの仏教である。こっちが金持ちと、支配者のための仏教となる。 

 この世は、自力(じりき)だけであり、他人の救済など知ったことではない、という悪意の 十分に、真この世の、大人(おとな)たちの支配する世の中である。

 私は、吉本隆明から、40年間、学ぶだけ学んだから、何でも受け継いでいる。 吉本隆明を支えた革命への幻想、あるいは幻想の革命 から、少し離れて1994年からは、自分の足で歩き始めた。革命はもう無いあとの、自分の生き方を必死で切り開いた。ここでは、私は、自力本願に学んだ。 

 だが、それでも、私、副島隆彦もまた、吉本の後に続いて、最期まで、民衆救済のための知識人、言論人として生きて、死んでゆこうと思う。 

 自分は、権力者や支配者の冷酷な自力(自分だけの救済で十分だ)の思想の方には行かない。だから私のために、集まってくれる人が集まって、私の葬式をにぎやかにやってもらいたい。 

 日本が生んだ悲劇の民衆思想家として、その恵まれず、かわいそうだった 吉本隆明 の魂を、私は引き継いで、ひきずってもうあとしばらく生きよう。そして、次の世代に、日本における 真の過激派の思想 というものの 強靭な遺伝子をあとに繋(つない)いでゆく。この灯を消すわけにはゆかない。  

追悼、吉本隆明 先生 。

副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

● 「 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想  」

2012年3月16日 スポニチ 

 16日亡くなった評論家吉本隆明さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若者たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。

 既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻想論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャンパスを歩くのが流行した。

 高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。

 若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の思想的課題をこう定めた吉本さんは、60~70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点でも、常に「大衆」と共にあった。

 戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐にわたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大衆」と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝