[895]竹山道雄 著 「見て、感じて、考える」のあとがき

会員番号5895番 投稿日:2012/02/25 01:09

 竹山道雄著「見て、感じて、考える」創文社刊 のあとがきに、今の日本人が大いに自戒しなければいけないことなのではないかと思われた文章が書かれていたので、以下にその全文を転載紹介する。著者の竹山氏は、「ビルマの竪琴」の著者でもある。
 これから先、いろんな難局に立ち塞がれ、その問題解決に四苦八苦するであろう、今そしてこれからを生きなければならない日本人に最も必要なのは、このあとがきに書かれていたような知識の類ではないかと思う。
 なお、この「見て、感じて、考える」は、現在絶版になっている。

<転載始め>
あとがき
 フランス語で、<voir,sentir,penser>というそうである。直観して、それを自分の胸で感じて(!)、それから考える、というのである。これを聞いてから、この言葉は私の念裏に残った。それで自戒のつもりで、この言葉を標題に選んだ。
 この手続きを経ないとき、思考は空虚になる。およそ広い意味の文化に関することがらについては、自然科学の領域とは違っていかなる理屈もつく。ありとあらゆる要素が複合して成立しているところの、文化、歴史、社会、生活などの現象については、いかなる見方も立てることができる。ここにはそれ自身に真否を立証するものはなく、どのような結論をも作り出すことができる。巧妙な論理をもって、ほしいままの独断を下すことができる。
 私には、このことが実に大きな危険と感ぜられる。そして、その余弊はわれわれの身近に氾濫している。
 自分の体験の吟味をなおざりにして、もしこの体験が問題になることがあれば、むしろ体験の方を既成の体系の結論に合わせるように解釈することは、我々の抜きがたい習癖となった。われわれには、何か根本的に大切なものが欠けている。それはおそらく、われわれが西洋的思考を学んで、それにのみ頼っていながらまだそれに熟していないから、これを自分の存在の反省にまで及ぼすことができない、ということであろう。
 レーギットは次のようにいって、日本のインテリを批評している。「日本の学生は懸命にヨーロッパの書籍を研究し、事実またその知力で理解している。しかし彼らは、その研究から自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何等の結果も引き出さない・・・・・・。ヨーロッパの哲学者のテキストに入ってゆくのに、その哲学者の概念を本来の異国的な相のままにして、自分たち自身の概念と突き合わせて見ることをせず、自明でもあるかのような風にとりかかる。・・・・・・ちょうど二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりしていながら、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでの、ヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、ヨーロッパの教師は、これで二階と階下を行き来するはしごは、どこにあるのだろうかと、不思議に思う。」
 まだ、全人間的に考えることができない・・・・・・、我々の持つ奇妙な断片的な性格は、このことからくるのであろう、と思われる。自分が見ることや感じることと、考えることとの間に連絡をつけることができない。感性は感性で自分の領域に収まり、知性は知性でそれ自身の世界の中だけで回転、はなはだしばしば空転している。我々の境位は、歴史的に有機的に発展したものではないから、それでヨーロッパ人よりもはるかに困難なのであろう。
 さまざまの思想体系が、さながら浅い田の水がうつるようにうつった。ある立場が深化するということがなく、立場そのものが次々と移動した。ここには根の生えた成長は少なかった。
 思想的オポチュニズムということは、このことと関連があるように思われる。自分が今奉じている思想は自分が考えたものではない、ということから来ていると思われる。この十数年来、世の中の支配的な思想は、猫の目のように変わった。一日にして、まさに正反対のものに移行したこともあった。これは普通に節操の欠如とか誠意のなさとかいうふうにいわれるけれども、私にはそうばかりとはいえないような気がする。抽象から具体へという思考の逆コースが根本の習癖としてあるところでは、現実の光景はそのときの照明によって一変する。私にもっとも深い印象をあたえたのは、人がそのときそのときによって真面目に信じていることであった。あるいは「自分はこれを信じて生きる」と信じていることであった。そのときそのときに良心的である、ということであった! 別の照明によって浮かび上がった世界観が。誠実に受け入れられたのである。ここには打算もあっただろうけれども、それより以上に、むしろ精神の依りどころとなる頼るものを求める衝動が大きく働いていたように思われる。
 多くの説が、強烈に主張されているうちに次第に現実から離れて、それ自体に独立した観念体系の中で加速度的に極端化して、ついには狂信的なうわ言や夢想的な幻影のようなものになってしまうのも、やはりこの自分の体験と突き合わせることをしないことによるのであろう。
 ここに集めたもの(「見て、感じて、考える」の本文を指す。本ブログ筆者注)が、上のような反省の課するところを果たしているわけではなく、いずれもささやかな随想にすぎないが、念願としては上のようなことを思っていた。そしてその結果が、このように多くの人の不興を買うに違いないものになってしまった。ただこれが、私が見、私が感じ、私が考えたことであることをもって、満足しようとおもうのである。
 ダ・ヴィンチは「泉から水を汲むことのできるものは、器に汲みおきの水は飲まない」といったそうである。そして、「では、その泉とは何か?」と問われると、「それは自然である」と答えた。自分で自然を掘って、そこに湧く水を飲めよ。人が器に汲んでおいた水は飲むな。ただこの泉のみが、我々の渇を真に癒すことができる。どうせ渇くなら、そういう渇きを持ちたいものである。
<転載終り>

がんばれ日本!ではないが、さあ、立ち直ろう!