[870]福島本部活動日誌です60

吉見 おさむ 投稿日:2012/02/08 00:08

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年1月23日の日誌です。
今日も漫然と書いてしまっています。

午前5時に起きて、風呂などの身支度をしました。
ビジネスホテルの髭剃りは前の人が使った際の細かい髭が残っていて、使う気になれませんでした。

午前6時15分、ビジネスホテルの朝食を食べに行きました。
美味しいものではありませんでしたが、サラダなどを1時間かけて食べ続けました。

午後8時にビジネスホテルを出て、常磐線で泉駅に向かいました。
午前9時に泉駅に到着しました。
そこから3.5キロ歩いてアクアマリンふくしまに行きました。途中で大きく迷ってしまい、余計に3キロ歩きました。
足が痛い中、自分でも何をやっているのだろうと思ってしまいました。
途中の道はかなりの交通量があり、震災前後で余り変化があるようには感じられませんでした。

アクアマリンに近くなったあたりの海岸沿いの建物は、津波で大きく壊れていました。(注:ただ、南相馬にもう一度行って思うのは、いわきの被害は南相馬よりは軽度だということです。)
ある取り壊し予定の家は、「送り化粧」をしてから取り壊すそうです。

また、その近辺の道路は、復旧工事中でした。

建物の取り壊しも進んでいました。

小名浜港は、漁船が整然と停泊していました。



着いたのは午前11時半頃でした。

まずは、ら・ら・ミュウという魚市場に行きました。
こちら側の駐車場は、まだ土の地面がむき出しのところがありました。

地震後に再開したそうなのですが、店の数に比べ客は余り居ませんでした。客の数は店員の数の3分の1といったところでした。


内部にはいわき市がやっている展示もありました。

外の展望場からアクアマリンふくしま側を見てみると、海上保安庁の船が泊まっていました。

(←こっちはアクアマリン側からとった画像です)
被害の大きかった埠頭は工事中でした。


(←これは後で近づいて撮影しました)
遠くの日本化成の工場は動いていました。

4つの倉庫だった津波を受けた建物の所に行きました。
この後この4つの建物は、レストラン街や展示場として再利用されるそうです。



レストラン街は既に営業が始まっており、中に土産物屋などが入っていました。

ただ、二階のレストランは、まだ営業していないようでした。

道は舗装修理中ではありましたが、6月頃よりはかなり直っていました。6月頃は砂が堆積していました。

アクアマリンふくしまへ行きました。
途中の道路や駐車場は大規模に復旧作業中でした。


剥がされたアスファルトが一箇所に積み上げられていました。

正面玄関は閉まっていて、別な所が入場口になっていました。
(←写真からはわかりにくいですが、砂のところで30cmの段差が出来ています)
正面玄関へ行く脇の歩道の修理も後のようです。

正面玄関先の交差点では、6月に倒れていた信号が新しいものに取り替えられていました。

貨物輸送列車の福島臨海鉄道が復旧するのも、暫く後と思われます。


(福島臨海鉄道の事故後の状況についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/fxnww385/24095642.htmlに写真が載っています。)
なお、アクアマリンふくしまは営業中でしたが、帰れなくなるおそれがあったので、私は中に入らずに帰りました。

流石に足が痛くなってしまったので、県道15号線を通っているバスを使って、泉駅に帰りました。
バス停までの道は所々に被害の跡がありましたが、普通の道でした。



(津波が県道15号線まで来ていたことには、後でhttp://ranasite.net/?p=5475を見て知りました。)

12時50分泉駅発の電車でいわき駅に戻った後、午後1時13分いわき発の磐越東線で船引に帰りました。
なお、電車の広告を見て、JR東日本にもネットスラングが好きな社員がいるのだと認識しました。

途中の川前駅以降は雪が残っていました。

昼食は、電車の中で煮干を食べました。

午後2時半に船引駅に着いた後、ダイユーエイトまで雪道を2キロ歩いて行き、半額の食料品を買い込みました。
途中の船引小学校では、除染された土の上に雪が覆いかぶさっていました。

午後5時半、ケーズデンキの反対側のバス停からバスに乗って、古道車庫に帰りました。
常葉町までは高校生たちが6人いたのですが、そのあとは私一人しか乗っていませんでした。
古道車庫についてからも、事務所までの400メートルの雪道が大変遠かったです。

事務所に戻って、最低限のことを処理した後、午後8時に寝ました。
明日は雪かきが出来るでしょうか。

(転載終わり)