[739]福島の原発事故の発電所内に残り続けた職員たちの重要な証言がです。

副島隆彦 投稿日:2011/10/04 18:31

副島隆彦です。 今日は、2011年10月4日です。

 私は、中国の調査旅行に行っていまして、先日帰りました。
最新かつ最先端の中国 を目撃してきました。
 中国は、さらに 恐ろしいまでの発展を遂げていました。たった一年で、驚くほどの成長です。 日本車も ドイツ車(フォルクスワーゲン)ももう 性能で追い抜かれました。 中国の国産車が 排ガス規制のヨーロッパ第4基準を超えたことを知り、これで汚(きたな)い空気の上海も北京も解決します。あとは水の問題です。

 コンピュータ(ふたつのスマートフォンの製造会社)も、高速鉄道も、太陽光発電(ソーラーパネル)も、中国が世界一になりつつある。
中国の 激しい不動産投資バブル、異様なまでの投資も、おそらく世界恐慌突入でも、大した打撃は受けない。現地を見て回って私にはよく分かりました。株価はすでに計画的に十分に落としている。 

 ヨーロッパのEU 財政危機(ソブリン・リスク)はアメリカにも大きな打撃を与えずにはおかない。いよいよ ヨーロッパとアメリカが追い詰められる。 日本が生き延びる道を、私は懸命に考えて、急いで4冊の本を同時並行で書き始めています。  

 金(きん)の価格の9月23日からの 暴落は、私が書いて予想してきたとおりです。 時期を見て、今こそ金を買うべきです。 一グラム4000円割れというのは、待ちに待った価格です。

 さて、以下は、福島の原発事故(3月12日、14、15日に爆発があってその後、収まった)についての 現場に残って復旧作業を続けた、日立と東芝の原発所長たちの、きわめて貴重で重要な証言です。

いやあ、これはすごい。 以下の文は、3月12日の原発爆発から 7ヶ月目にしての 原発現場にいた責任者たちの本当の生(なま)の証言です。 

 誰か、以下の 日立と 東芝の 原発所長たちの 顔写真を 再生貼付けしてくれませんか。

副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

●「 顔なでた爆風、必死に逃げた フクシマ50作業員語る 」

2011年10月4日03時00分   朝日新聞 

 朝礼であいさつする日立GEニュークリア・エナジーの河合秀郎所長。最後は「ご安全に!」で締めくくった=9月、福島県広野町、日吉健吾撮影

インタビューに応じる日立GEニュークリア・エナジーの河合秀郎所長=福島県広野町、日吉健吾撮影

インタビューに応じる日立プラントテクノロジーの冨岡郁三工事長=福島県広野町、日吉健吾撮影

爆発時の避難ルート

 東京電力福島第一原発の事故当初から原発にとどまり、原子炉メーカーとして継続して復旧作業の中心を担ってきた日立製作所グループの現場責任者2人が朝日新聞の取材に応じ、作業の現状や、爆発に遭遇した時の様子を語った。放射線量が高い原子炉建屋内での作業は被曝(ひばく)対策が最大の課題になっているという。

 証言したのは日立GEニュークリア・エナジーの河合秀郎所長(57)と、日立プラントテクノロジーの冨岡郁三工事長(51)。復旧作業にあたる現場責任者の証言は異例だ。

 河合所長らによると、作業は現在、水素爆発を起こした1号機の原子炉建屋から放射性物質を含むガスを抜き取る装置の設置準備に入っている。

 日立グループは第一原発の作業での放射線量の基準を年間累積で30ミリシーベルトと定め、国の同50ミリシーベルトより厳しくしている。基準を超えた作業員は仕事を続けられない。高線量の建屋内で作業をした班にはしばらく低線量の屋外で作業をさせるなど、やり繰りしている。

 原子炉建屋内には、毎時1シーベルト(1千ミリシーベルト)を超える場所もある。対策なしでは急性放射線障害を発症するとされる水準。こうした場所は原発内の「ホットスポット」と呼ばれ、線量を厳密に調査した上で作業に入っており、約5分しかいられない所もある。銅などでつくった「遮蔽(しゃへい)体」を置くなど工夫しているという。

 日立グループは原発から二十数キロの福島県広野町の旅館に拠点を置く。旅館の敷地には、下請け企業のプレハブの詰め所が並ぶ。毎朝、600人ほどの作業員がラジオ体操をし、朝礼で注意点などを確認。「ご安全に」と声をかけあい、バスで原発に向かう。

 河合所長は「メーカーとして、我々も精いっぱいやる責任がある」と話す。

 爆発が相次ぐ中、原発にとどまって復旧にあたった東電などの作業員は、海外メディアから「フクシマ50(フィフティー)」と称賛された。

■爆発の瞬間、その時現場は

 東京電力福島第一原発の復旧作業にあたる日立製作所グループの現場責任者2人は、3月に爆発が相次いだ当時も現場にいた。命の危険をも感じたという。

 地震と津波が襲った3月11日、第一原発には東電社員や関係企業の社員ら約6400人がいた。うち日立グループ全体で約1800人。4号機の定期検査のため普段より多く動員され、約1300人は原子炉建屋などの現場にいたという。

 激しい揺れに、日立GEニュークリア・エナジーの河合秀郎所長(57)はほぼすべての作業員に避難を命じた。しかし構内は車が大渋滞。夕方、構内にいた河合所長に東電から電話が入った。「重大な状況になっている。協力してほしい」

 作業員30人ほどが残っていた。やらなければならないのは1、2号機の電源復旧だ。電源車とタービン建屋の電源盤をケーブルで結ぶ。電源を取り戻すためには欠かせない。作業は12日午前まで続き、その時点で10人ほどが帰宅した。

 12日午後3時半すぎ、1号機の原子炉建屋で水素爆発が起きた。河合所長らはバッテリーを取りに約20キロ離れた東電の作業拠点「Jヴィレッジ」にいた。爆発音がはっきり聞こえた。

 原発に戻ると、ようやくつないだケーブルがぼろぼろになっていた。部下の一人一人に意思を確認すると、多くが帰宅を選んだ。

 14日、日立グループの作業員はわずか4人になった。河合所長と日立プラントテクノロジーの冨岡郁三工事長(51)らは2号機の電源復旧に取り組んだ。

 激しい爆発音と振動。直後、コンクリートのがれきが次々に落下してくる音が聞こえた。午前11時1分、3号機の爆発の瞬間だ。

 つい30分ほど前まで、3号機のすぐわきの道で作業していた。一段落し、50メートルほど離れた2号機のタービン建屋内でケーブルをひく作業に移ったところだった。ケーブルを通すための貫通部から爆風が吹き込み、すぐそばにいた冨岡工事長の顔をなでた。

 建屋が崩れる音がやむのを待って外に出た。乗ってきていた車の屋根全体にがれきが降り積もり、ぐしゃっとつぶれていた。辺りに東電社員ら十数人がいた。風は海へ向かっている。東電の放射線管理員が線量を測ると山側を指し、「こっちに逃げましょう」と叫んだ。

 「ああ終わりだ」。河合所長はそう思いながら、防護服に全面マスクをつけ、冨岡工事長らと一緒に、がれきが積もった坂道を走った。辺りに放射性物質を含む煙が立ち込めている。思うように呼吸できず、すぐに走れなくなった。負傷した自衛隊員が足を引きずって逃げている。20~30分かけて1キロほど走り、免震重要棟の中に飛び込んだ。

 14、15両日に起きた3回の爆発のあと、原発から作業員らが一斉に退避。東電などの約70人になった。河合所長らも会社の指示で、15日にいったん茨城県日立市の工場に引き揚げた。

 しかし、すぐまた原発に戻るように言われた。東電本店で菅直人首相(当時)が「撤退はあり得ない」と叫んでいたころだ。

 「誰を現場に出すか」。日立グループ内で激論があったという。労働組合の了解を得ている時間はない。集められたのは、非組合員の課長級以上の社員ら約30人。普段は原発の現場で作業することのない技術者や、下請け会社の高齢の社長の顔もあった。翌16日、再び原発に向かった。

 「もし死者が出ていたらと思うと……。仕事を続けた自分の判断は正しかったのか」。河合所長は今も時折考える。

 原発内の事情を知る責任ある立場の人はこれまでほとんど証言してこなかった。朝日新聞は9月、河合所長らを取材し、その後も関係の取材を続けてきた。東電は政府の事故調査・検証委員会で調査対象になっていることなどを理由に、第一原発の吉田昌郎所長らへの取材要請に応じていない。
(小島寛明、大月規義)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝