[720]9月5日・6日に福島県相馬市・新地町に行ってきた

長井大輔 投稿日:2011/09/17 18:11

 長井大輔(ながいだいすけ)です。今日は2011年9月17日です。

 9月5日、6日に福島県新地町(しんちまち)・相馬市(そうまし)に行ってきました。これは私の福島報告文5です。

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【地図】福島県相馬市・新地町

 朝9:00に自宅のある埼玉県を出発して、関越道(かんえつどう)・外環(がいかん)を経由して東北道で福島県に向かった。福島西IC(インターチェンジ)で降りて、国道115号線(中村街道)で福島市から相馬市に向かい、15:00(午後3:00)ころ、相馬市の私の親戚が入居している応急仮設住宅(おうきゅうかせつじゅうたく)に着いた。

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【写真01】仮設住宅(福島県相馬市)

 仮設住宅は相馬市の山側、阿武隈高地(あぶくまこうち)の麓(ふもと)にある、相馬中核工業団地の広大な空(あ)き地につくられていた。相馬市の原釜(はらがま)地区や南相馬市の住民が、入居している。

 仮設住宅は、三つの部屋と台所・トイレ・風呂からなる。テレビ(パナソニックのヴィエラ)、オーヴンレンジ(マイクロウウェイヴ)、冷蔵庫、ガスコンロ、洗濯機、その他(空調か)からなる「6点セット」と呼ばれる家財道具も付属し、退去時には6点セットを私有することができる。アンテナは地上ディジタルのみで、BSディジタルやCSは見ることができない。入居期間は2年以内。

 16:00から相馬市の隣にある新地町(しんちまち)に行った。新地町を通るJR常磐線は海から500mしか離れておらず、JR新地駅は大津波(おおつなみ)によって、その駅舎が流された。今回行ってみると、線路は綺麗(きれい)に撤去され、津波の被害を受けた駅舎も、電車の残骸(ざんがい)も片づけられていた。

 新地町には、釣師(つるし)という漁師町(りょうしまち)があった。しかし、大津波によって、釣師は跡形(あとかた)なく消えてしまった。私は新地町に住んでいたことがあるので、町のことはよく知っているのだが、現場に立っても、どこに何があったのか、思い出すことができない。本当に何もなくなってしまった。

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【写真02】福島県新地町釣師

 19:00ころ、仮設住宅にもどり、夕飯を食べる。21:00ころ、酒に酔(よ)って、寝ていると、地震が起きた。ものすごく揺れたように感じたが、震度3だった。プレハブだから、余計に揺れるのだろう。

 翌9月6日は、午前11:00に仮設住宅を出て、相馬市の原釜(はらがま)地区に行った。原釜は海沿いの漁師町で、4部落(ぶらく)が大津波によって潰滅(かいめつ)した。私は4月に4回ほど、原釜を見に行ったが、その時は、どの部落も瓦礫(がれき)の山で、自衛隊が細々(ほそぼそ)とその処理をしていた。

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【写真03】相馬市原釜地区尾浜(おばま)

 今回、行ってみると、自衛隊はすでに撤退しており、瓦礫は綺麗(きれい)に処理され、どこも更地(さらち)になっていた。瓦礫の処理も終わったためか、土建会社のダンプカーや重機(じゅうき)もあまり見かけなかった。前回は、全壊した家屋(かおく)から家財道具を整理する住民の姿を見かけたが、今回は誰もいなかった。更地には、草がぽやぽやと生(は)え始め、古代遺跡のような風景になりつつある。

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【写真04】相馬市松川(まつかわ)の漁船

 原釜地区の隣にある、岩の子(いわのこ)地区や、磯部(いそべ)地区にも行ってみた。これらもそれぞれ、小さいながらも独立した漁師町だった。岩の子は松川浦の入り江(いりえ)にある地区なので、その分被害が軽いように見えたが、太平洋に直(じか)に接する磯部地区は、津波の直撃を受けた。今回初めて、現場に行ってみたが、まだ瓦礫は片づいておらず、山形・群馬・新潟ナンバーのダンプカーがひっきりなしに往来(おうらい)して、瓦礫を運搬(うんぱん)していた。

 これで、今回の私の現場視察は終わった。帰り道は、相馬からJR亘理駅(わたり、宮城県亘理町)まで車で行き、亘理から電車で仙台駅まで行った。仙台からは23:55(午後11時55分)発の夜行バスに乗り、埼玉に帰った。常磐線は、亘理駅と久ノ浜駅(ひさのはま、福島県いわき市)の間で不通となっている。亘理駅と原ノ町駅(はらのまち、福島県南相馬市)の間は、代行バスが走っている。常磐線の不通区間が開通するには、3年以上かかるという。

 現地で聞いた話をまとめると、次のとおり。一度、緊急時避難区域(福島第一原発から30km)に指定された南相馬市の住民は、放射能への関心が高いが、原発から約50km離れた相馬市の住民は、放射線量が低いこともあってか、関心が低い。南相馬市の住民には、東京電力から多少賠償金(ばいしょうきん)が出ているが、大津波で被害を受けた新地町や相馬市の住民には、日本政府や地方政府からお金が出ていない。義捐金(ぎえんきん)もまだ、配分されていない。南相馬市から相馬市へ避難している人は「放射線量は低いが、安全かどうか分からん。でも行くとこがないからここにいる」と言っていた。

 日時がはっきりしないが、地震直後、南相馬市は断水(だんすい)した。そのため、野馬追祭場地(のまおいさいじょうち)に自衛隊の給水(きゅうすい)部隊がやってきた。しかし、福島第一原発(1F)で爆発事故発生との報(しら)せが入ると、住民に何も言わずに撤退した。一日で撤退した。自衛隊の撤退をきっかけにして、住民が騒ぎ出し、南相馬市住民の大量避難が始まった。その話をしていた人は「国は信用できない」「戦争になっても守ってもらえない」と言っていた。

 漁(りょう)のできない船方(ふながだ、漁師のこと)連中は、日当¥10000で船を出して、海底の瓦礫処理をしている。常磐道は2014年に全線開通の予定だったが、常磐富岡IC(じょうばんとみおか、福島県富岡町)と山元IC(やまもと、宮城県山元町)の間がまだ工事中だった。8月に南相馬市に行ったときは、まだ工事は再開されていなかったが、相馬市では今回、工事が再開されていた。また、福島・相馬間では阿武隈東道路(あぶくまひがしどうろ)の工事も進んでいる。これができれば、国道115号線の急カーヴ・急勾配(こうばい)の連続する悪路(あくろ)を通らなくて済むようになる。

 新地・相馬の視察の結果をまとめると、3月11日に地震・津波から半年経(た)って、瓦礫の撤去と更地化、仮設住宅の建設と被災民の入居は完了した。いまだ復旧・復興の段階には、到達していない。大津波のことを考えると、海岸沿い(海っ端、うみっぱだ)にそのまま、住宅を建てるのは困難だ。実際、津波の被災者も「海の近くには住みたくない。夜中、寝ている時に津波に襲われたりしたら困る」と言っている。宮城県山元町は、常磐線と海岸地区を丸ごと、内陸に移転する計画を出している。msn産経ニュースから関連記事を転載する。

(転載貼り付け開始)
 常磐線を内陸移設 山元町「0.5~2キロ」案提示 宮城 2011.8.29 02:12
 
山元町は28日、東日本大震災の津波で流されたJR常磐線の再建に向け、町内の全ルート約11キロを0・5~2キロ内陸側に移し、一部は国道6号の西側を通る線形にするという具体的な内陸移設案を初めて明らかにした。

 これに伴って、山下(やました)駅と坂元(さかもと)駅もそれぞれ約1・5キロ内陸側に移し、従来のJR常磐線の町内ルートはほとんどを県道相馬亘理線に流用、残りを町道として活用するとしている。

 内陸移設案は同日の「第3回山元町震災復興有識者会議」で、町が示した復興まちづくり土地利用構想案で明らかになった。復興に向け土地利用をどうするかは町が年内策定を目指す復興計画の最重要懸案。

 町は防潮堤(ぼうちょうてい)、防災林、浸水(しんすい)を前提にした農地、道路などの多重防御で町民を津波から守る基本方針をすでに決めている。構想案では津波の浸水深を基準に土地利用の具体的なゾーンニングを示した。

 それによると、浸水深が3メートルを超えた海岸から約1キロの地域については、建築基準法に基づく災害危険区域の第1種として、住宅の新増改築を禁止して、内陸部への移転を促す。

 浸水深2~3メートルを同第2種、同1~2メートルを同第3種として、住宅の新増改築には盛土や鉄筋コンクリートの基礎などで津波被害を床上浸水程度に抑える構造にすることが条件になる。

 町の内陸移設案はJR常磐線の津波被害を最小限にとどめ、沿岸住民の移転の受け皿を利便性のある新駅周辺とし、市街化で復興の核にする考え。

 斎藤俊夫(さいとうとしお)町長は、「この案はJRの基本スタンスと一致している」として9月2日からの住民説明会で理解を求めることにしている。
(転載貼りつけ終了)

映像編はこちら http://www.youtube.com/watch?v=lCtJdU6w8YE

長井大輔 拝