[598]東北被災地支援ボランティア体験談

高田 聡 (No.6984) 投稿日:2011/06/24 12:00

会員番号6984番・高田 聡と申します。
こちらの掲示板には初めて投稿させていただきます。私は副島隆彦先生のことは以前から国内外の政治について書かれた本を読んでおりました。
東日本大震災のすぐ後に福島原発についてのコメントを出されて以来、こちらの掲示板を拝見するようになりました。副島先生の政治についての膨大な知識と卓越した世界の動きを読む力から、私もその潮流を学ばせて頂いております。
私は3月末より知人と被災地(仙台市)に出向いております。もう報道でその多くが流されていると思いますが、私がお会いした被災者の方についてを投稿致します。

4月24日の東北方面ボランティアは、青年とベテラン合わせて8名で行ってきました。
仙台市宮城野区〇〇という場所を対策本部で聞いて、ナビを頼りに現地へ向かいました。
現地は、まだ田畑に車が流れ着いたままになっているところで、道路は自衛隊によってきれいにされていましたが、個人の敷地内は津波が運んできた泥、瓦礫、根から引きぬかれた樹木が山積みになっていました。
家屋は、倒壊したり、壁に大穴が空いていたりしていました。所々では、屋根と柱を残して全て取り除かれてしまっている家もありました。まるで、解体工事の現場みたいです。一軒一軒の土地も広くて、家も昔ながらの立派な家が多い地区でした。
私達がナビで到着したお宅は、一階の床が剥がされていました。近くに汚泥処理場があったので、そこの汚泥が床下に入っていると聞きました。剥がした床下からは、真っ黒なヘドロがバケツで外へ運びだされていました。
私たちは、すぐ近所にあったそのお宅の幼なじみの家に案内されました。私達が到着したときには、すでに東京から泊りがけで来ていたボランティアが家の中の泥を運び出していました。床、戸棚、押入、タンス、全てが水に浸かって畑のものらしい泥が至る所に溜まっていました。窓ガラスを見ると、ちょうど浸水した高さまでが汚れていました。
およそ190センチくらいでした。190センチの線から下は、泥が溜まって、木材は水に浸かった跡でしたが、その線から上の天井、照明、障子、カーテンなどは、全く綺麗なままでした。私たちは、押入れに造りつけであったタンスが開かなくなってしまったので、開けて欲しいと頼まれました。8人が4人ずつに別れて、若手で泥を運び出し、ベテランでタンスのこじ開けをしました。泥の運び出しといっても、戸棚に積もっていた泥を掻いて、戸棚の中に元々あったそのお宅の物を分けながらなので、すこしずつしか進みませんでした。棚の戸は、木が水を含んで膨張しているので全く動きません。スコップでレールを壊してやっと戸が外せました。缶詰や醤油の瓶がそのまま出てきました。
戸棚が終わると、部屋を移り、他の飾り棚に取り掛かりました。引き出しを一つづつ外しながら、中身を分けて、泥を掻きだしました。
ベテラン組は、タンスに苦戦していました。正面からバールでこじ開けようとするのですが、こちらも水を含んだため一向に歯がたたない様子でした。作戦を変えて、上から順番に壊していくことにしました。うえから、ベニヤ板をはがして一番上のタンスの中身を出しました。通帳、お財布、孫のおもちゃ、洋服、着物と3月11日までの生活していたそのままの状態が出てきました。家の人は、あーもう使えないね。としか言いませんでした。タンスの中まで水が入り、中身を出すと水が滴り落ちました。着物もタンスの奥に大切にしまってあるものだったのでしょう。一段目の中身を出してから、大きな木槌とバールでどんどんと解体していきました。途中、昼休みが入り、道路際に座ってお弁当を食べました。元は美しい田園風景と大きな家が並ぶ場所だったのが、一面流れ着いて横たわっている木や泥、草、壊れた車、半分だけのブロック塀の光景です。その頃には慣れましたが、到着したときは生臭さが辺りには漂っていました。あまり食事をしたいとは思いませんでしたけど、身体を動かすために食べました。周りのボランティアの人とも色々話ができました。
午後から、若手も加わって、例のタンス解体を続けました。タンスが2ヶ所完全に解体が終わる頃には、予定時間の3時になっていました。現場の責任者が、時間を伝えに来てくれて、終了しました。私たちは、その家の奥さんに挨拶をしました。
家に住めるようになるまで、どのくらいの時間と仕事があるのかは誰も計れませんでした。奥さんは丁寧に御礼を述べていました。
私たちは、有難うございました。と言いました。これだけしかお手伝いができない。その残念さを感じていました。一人が、また来させてもらいますから。と言いました。できるなら、家に住めるようになるまではお手伝いしたい。そんな気持ちでした。床を剥がしていた最初の家で手や靴を洗っていると、今回のボランティアの代表者が、挨拶に来てくれました。
私は携帯番号を交換して、今後も継続的に来たいことを伝えました。彼は、東北だけでは何ともならないし、この先半年くらいでは全然片付かないでしょうから、ぜひお願いしたい。と言いました。その後に家主さんの希望で、ボランティアに来ていた人と記念写真を撮りました。家主さんは、全員入って欲しいと言って、もう一度写真に入らなかった人と撮りました。
写真を撮り終えると、家主さんがみんなに挨拶をしました。皆さんが来てくれるその気持ちがとても有難い。と言って、深々とお辞儀をしていました。有難うございました。と何回も言って、泣きながら御礼をしていました。私は頑張ってください。と家主さんに声をかけるよりも、自分が頑張りますと言いたい気分でした。私たちは、大変な災害現場に足を運んで行っても四時間ばかり車で走れば、安心できる家に帰って来られます。でも、今日会った方々は、近くにアパートを借りて、毎日毎日泥だらけの家と庭に積み上がった泥と瓦礫の山を少しづつ片付けています。〇〇地区はライフラインが復旧しました。とニュースではあるけど、ライフラインの復旧から先は、被災者自身でやらなければいけない事が沢山あることがわかりました。
お金(義援金)、労力(ボランティア)の両方を継続して、被災地に送っていかなければいけない現状が、ハッキリと分かりました。
支援が、一時期の流行りみたいに、数ヶ月で忘れてしまう事がないようにと思いました。