[588]福島から報告します2
連投失礼します。明日・・・などと書き込んでしまいましたが、「やはり待っていられない、福島にはこういう優れた意思を持った方がいるんだ、彼らを放っておくのは単純に私達にとって損失なんだ」ということを、どうしても声を大にして言いたいので、報告を続けます。
(転載始め)
吉見 おさむです。
2011年6月18日の日誌です。
今回は長くなるので、前半と後半にわけています。
以下が前半です。
朝起きてトイレにブラシをかけました。
2階の掃除をやりなおしました。未だ不十分で、少し落ち込んでいます。
12時にKさん、Kさんのお父様、Sさんが事務所にいらっしゃいました。
冷蔵庫に残っているやきそばをKさんが調理されました。美味かったです。
お三方が調査等をされるのに私も同行させてもらいました。
この後、なにからなにまで全て、お世話になりました。
Kさん、Kさんのお父様、有難うございました。Sさんにもよろしくお伝えください。
平伏沼という、山の頂上にある沼に向かいました。モリアオガエルという蛙の産卵地です。
http://www.kawauchimura.jp/seeing/showplace/hebusu.html
後で話を聞くと、蛙ではなく、沼が天然記念物なのだそうです。
途中の民家には人がいないようでした。道中の399号線の途中で木が土砂崩れで倒れていました。川内村の途中は0.45μSvでした。
道中、「飯館村の地表では20から30μSvのところがある」とSさんがおっしゃっていました。
平伏沼の手前180メートルまでは車でいけたのですが、それから後は徒歩で細い道を行きました。ここをSさんが測定したところ、1μSvでした。
「パワースポットのよう」「タイムスリップしたよう」と川原さんが仰っていました。
到着してみると、沼がほとんど干上がっていて、果たしてこれで大丈夫なのか?とその時は思いました。後で出てくる蕎麦屋の職人さんは「大丈夫!」と言っていました。
「うまわるや森の?は阿武隈の沼べ水栖のかげ 草野心平」と彫られた石碑がありました。ここをSさんが測定したところ、0.78μSvでした。
帰る途中で落石がありました。
平伏沼から復興活動本部に戻る途中に、行く途中にあった蕎麦屋さんに寄りましたが、午後一時半で昼は終わりでした。
ですが、蕎麦の職人さんから話を聞けました。
職人さんが次のように言いました。
「モリアオ蛙の産卵は午前三時から四時。石碑のあたりで見つかりやすい」
「一時はこのあたりは30人から50人しかいなかったけど、今は170人に戻ってる。生活が大変だから。でも、子供がいる人は一人もいない」
「電力会社から来てるやつらとか、タイベックス着て走り回りやがる。むかついたので、この前ついに電話してしまった」
「一時支払金が払われた。100万+45万で145万円」
「でも、誰だって、金の問題じゃあ結局ないってどうせいつかはわかる」
「子供がいないから、ここで未来が途切れてしまう。ずっと続いてきた今喋ってるこの方言とかも終わってしまうだろう」
「ここは200円で入浴できるし、5部屋まで泊まることも出来る」
レジに置いてあった「かえるかわうち」というシールをKさんが話題に出すと、職人さんは100枚限定のかわうちむらTシャツを持ってきてくれました。
一枚2500円で、一人2枚ずつ購入しました。
職人さんは、福島復興本部の脇の288号線を通るので、学問道場のことを知っていました。
偶然お店にいた朝日新聞の記者さんに、学問道場とは何か訊かれ、6月4日と5日のチラシを一枚渡すように頼まれました。
正直戸惑い、判断に迷いましたが、何か恥ずかしいことをしているのではないと思い、渡しました。
Kさんのお父様が「20キロの一時帰宅が今日だから、記者がいるんじゃないか」とおっしゃっていました。
前半は以上です。
(転載終わり)
(転載始め)
吉見 理です。
2011年6月18日の日誌です。
今回は長くなるので、前半と後半にわけています。
以下が後半です。
都路へ戻る途中の車内で、どうやってこれから復興しようか、人を呼び戻そうか、という話になりました。
私は大した発想を思い浮かべられず、「娯楽を断てるというのは宣伝にならないだろうか」といった具体性の欠片もない事を言っていました。
大家さんのSaさんの所にご挨拶に行きました。奥様がいらっしゃったので、話を聞けました。
奥様が伝えたところによると、今日の新聞に、30キロ圏内の住民は一人あたり月に10万円、体育館などの避難所にいる住民は更に2万円貰えると書いてあり、「みんな喜んじゃってる」そうです。
期間は6ヶ月で、奥様は「6ヶ月じゃぁね・・・、副島先生は話半分に聞いといたほうがいいって言ってたし」と仰っていました。
一方、Kさんのお父様は、「いや、もらえるものはもらっておくべきだよ」と仰っていました。
奥様にかわうちむらのTシャツを差し上げました。奥様は「川内村は村長が良くて頑張ってる。だからこういうことができる。田村市は寄せ集めだから、そうならない」と仰っていました。
そしてやはり、どうやって復興しようか、人を呼び戻そうか、という話になりました。
Kさんが「川内村は一緒に復興したい位のいい村だ。住んでみたい」と仰ったところ、奥様が「川内は行政区分が違うから無理だよ」と返されました。
Kさんが「防護服を着て盆踊りとかやったらどうか。それを検問所の前でやって、捕まって連れて行かれるとか・・・。それでも、祭りとかでもなんでもやって区切りつけないと、人が戻ってこない」と仰いました。
事務所に一旦帰って、梅干し、梅、梅ジュースを作る作業を、Sさん指導のもとでやりました。
これらは冷蔵庫とコンロの下に置いてあります。
昼に行けなかった蕎麦屋に午後五時半に行きました。
とろろ蕎麦を頂きました。ツユなしで全部食べられる、美味しい蕎麦でした。
入浴料は200円でした。久しぶりに髭剃りが出来たのが嬉しかったです。
午後7時にお別れした後、妙な興奮状態になりました。
「どうやったら、福島に若い人が自発的に戻ってくるか。この事故を奇貨にして、お勉強を必要最小限の労力と時間に抑えて、ゲームでもなんでもやって顔を広くするのと、一旦立ち止まって物事を考える余裕を作る・・・などと叫び出したら俺は気が触れたと思われるだろうか。でも、お勉強して東京の大学に入っても、合う人は合うんだけど、地方の人たちに良いことがあるとは限らない。先日お話したNさんも、私もそうだった。地元の人が大切にされるのは結局地元であることが多い。東京の大学や大企業は結局地方出身者を大事にしない。それはこの東電の事故が一番象徴的・・・。以前の週刊ポストも、『大企業は最近地方の公立高校出身の有名大学を好んでいる。(なぜなら、言うことを聞かせやすいからだ)』と書いていたし。」
などとずっと考えていました。
そうしたら、いつの間にか午後11時を回っていました。慌ててこの文章を書き出しました。
これを書き始めた午前0時位に大きな余震がありました。最近午後10時から午前0時の2時間の間に余震が起きることが多く、少し気になっています。
この余震は、東京で感じていた余震よりずっと大きな、ちゃんと地震といっていいようなものです。震度4くらいありました。
実際、PCの前から全速力で離れて、建物の外に逃げ出しました。
後半は以上です。
(転載終わり)