[566]福島で見聞きしたこと。【第三部】

根尾知史 投稿日:2011/06/08 09:55

【第三部】

根尾知史です。福島復興活動本部として借りている元コンビニの建物の大家さんの奥さまが、震災当日の様子を話してくださいました。

大屋さんご夫婦も、福島第一原発から20キロ圏の検問所から、1キロくらい外側の場所に住んでいます。

3月11日(金)の地震があった日の夜は、富岡町や浜通りなど他の町からたくさんの人たちが、わっと避難してきたそうです。

その夜は、その人たちのためにおにぎりを握って、差し入れをしてあげたりしていたそうです。

ところが翌3月12日(土)になって、家の近くに見たこともないくらいたくさんの車が押しかけてきた。どうやらそれは、東電の職員たちで、彼らは住民よりも先に、逃げて行ったそうです。

そのうちに、町内放送で「集会所に避難してください!」と流れたので、自分たちも訳もわからず、着の身着のままで避難した。

そのときは、まさかそれから2ヶ月も避難所生活が続くとは、さすがに思わなかったわ、と言っていました。

このとき避難した地元の方たちの中には、原発20キロ圏内に住んでいた方たちもいて、その人たちは結局、3月11日以来いちども自宅に帰っていそうです。衣類とかを取りに帰りたいと言っているそうです。

福島第一原発から20キロ圏内の人口はおおよそ7万人で、約27,000世帯いるそうです。

復興活動本部がある福島県田村市の都路(みやこじ)という地区は、とてものどかな田園地帯で、海風も吹いてすがすがしく、夏もそれほど暑くはならず、自然が豊かで美しい場所です。

地震が起こる前は、田舎暮らしを求めて都会から移り住んでくる「リタイア組」に人気がある地域であったそうです。
坪当たり1万~5万円くらいの単価で一軒家を購入できるので、都会の人は喜んで家を購入していたということです。

地元の方と話していて、避難した地域の家庭で買われていたペットの話になりました。彼女はしみじみと、「犬、猫が一番かわいそうだったよ」と言っていました。

地震のあと飼い主が急にいなくなって、1ヶ月も2ヶ月も戻って来ないまま餌ももらえず、家の中に閉じ込められたり、鎖に繋がれたままにされていたからです。

知り合いのところで飼われていた犬は、地震のあと、20日間くらおいてけぼりにされたショックでボケてしまっていて、主人が戻っても分からなくなってしまっていたそうです。
名前を呼んでも、ぼーっとしているだけで反応を示さなくなって、感情が無い犬になってしまったそうです。ただ、餌をやると餌だけは食べるから本当かわいそうだ、と言っていました。

その女性の息子夫婦が、郡山(こおりやま)に住んでいて、奥さんが妊娠しているそうなのですが、震災後は、その息子夫婦の家を訪ねても、放射能が(移るから?)危ないから、嫁さんには近寄らないでくれ、と言われるのだそうです。

野菜などおみやげで持っていっても、「都路(みやこじ)の野菜は持ってこなくていい」と言われた、と寂しそうに言っていました。「都路の野菜だって、ちゃんと放射線量を測定してもらって、食べても大丈夫だと言われているのにねえ」ということなのです。

「とにかく、人が帰ってこないのよ。放射線量も測ってもらって大丈夫だと言われてるのに。もう帰ってきても大丈夫だよと、(政府に)言ってもらえたらいいのにねえ」と、やるせない表情でつぶやいていました。

調査や作業やに来ている東電の人や自衛隊の隊員たちも、20キロ検問所の警備のために全国から呼ばれている警察官たちも、20キロ圏の境界線から一番近い、この都路(みやこじ)にある旅館に泊まればいいのです。

それをわざわざ、これ見よがしに、そこからさらに車で一時間も離れた飯坂まで帰って、寝泊りしてるんだよ、とも言っていました。

都路の地元の方々は皆、あと1年は、今の状況が続くだろうと考えているそうです。

避難所生活では、朝昼晩の三食がただで食べられて、皆でいられて楽しい、と思ってしまって、おじいちゃん、おばあちゃんや、あるいは、もらえる物をできるだけもらおうとして居続けて、家も壊れてないし、放射能汚染ももう問題ない数値になっているのに、避難所からいつまでも離れない避難者たちもいます。

副島先生が、津波をかぶって家も何もすべて失った「被災者」と、原発のせいで無理やり避難させられている「避難者」とは、はっきり区別しなければならないと言っている意味を、もういちど、私たちも、自分たちの頭の中でもよく考えて、より正確な、現場の現実を理解する必要があります。

私が訪れた都路(みやこじ)の古道(ふるみち)の人たちは、家も壊れていなくて、放射線量も1日3回、各行政地区ごとの役場から公共放送が流れて公表されていて、数値的に問題ないレベルにまで下がっています。

それなのに、20キロの境界線のすぐそばの21キロの地点に住む住民は、まだ今でも半分以上が家に帰っておらず、30キロ圏内でもまだ不安だからといって、いつまでも政府が用意した避難所に住み着いて、自宅に帰ろうとしない人々が大量に出てきているのです。

こうした人たちが今後どのようになって行くのか。すでに現在でも、ただでもらえる支援物資や食料や、そして、一番問題の補償金をどれだけもらえるか、ということばかり考えるようになっているという現実があるのです。

周りから「かわいそうな避難民」というレッテルを張られて、そのなかで福島県民全体が、「かわいそうな県民」として、どんどん堕落していくことが恐ろしいと、副島先生が復興パーティーで話されたとおりです。

最後は、「世界のフクシマ」とおかしく世界に認識されるようになって、まるで他国から「チェルノブイリ」のように、扱われる地域になってしまうでしょう。
これが、世界が(アメリカが)、福島県を「世界の核廃棄物処理場」にすると決めた、恐ろしい計画を遂行するために利用されるのです。

これまでに繰り返し書いてきたとおり、福島県の20キロ地点の地域は、すでにすべてが平常に戻っています。

違うのは、20キロ地点に警察が勝手に検問所を置いて、法的にも科学的にも根拠が限りなく曖昧なままなのに、勝手に違法な立ち入り禁止命令を言い続けていることです。

そしてそのために、いつまでも避難所から帰ってこない住民が、まだ8割くらいもいるという事実です。

「避難所から避難してきたんだよー」と言っていた、元気な農家をやっているおばあちゃんの以下の言葉が、正しい真実を物語っています。

「あんなところにいたら、人間がおかしくなっちまうよ。とっとと帰ってこなきゃだめだ!おれは、先にさっさと逃げ帰ってきたよ。いま、自宅を掃除してきれいにして、野菜とか自分の分だけでも軒下で植えて、今年はダメだっけども、来年また、農作業を始められるように、今から準備はじめねばならねんだ。避難所で、ぼーとして、喜んでる場合でないって。だから、先に出てきたおれの方が頭いいんだってば」

根尾知史拝