[565]福島で見聞きしたこと。 【第二部】

根尾知史 投稿日:2011/06/08 09:46

【第二部】

根尾知史です。次に福島に行ったのは、5月28日(土)、29日(日)でした。29日の日曜は、福島復興本部となる都路(みやこじ)の古道(ふるみち)にある元コンビニの建物の掃除や修復などをしました。

このときに、翌週末の6月4日(土)、5日(日)の二日にそれぞれで行われる、復興パーティのために用意する焼き鳥やバーベキューなどの食材の手配などもしました。

そのときに、ある地元の女性のかたに初めて聞いた、避難所にいる人々の実態が衝撃的でした。

その女性はすでに、自身の商売を再開しようとして避難所から戻って来ていました。都路の自宅に戻って、普通に生活をしていました。

彼女の第一声は、「とにかく、都路(みやこじ)は、家も壊れてないし津波があったわけでもなくて大丈夫なんだから、もう避難所にいることなんかないんだよ。だから、みんな早く帰ってきたらいいのよ」という言葉でした。

そして、避難所にいつまでもだらだらといる人たちは、「そこにいれば、朝昼晩のただで三食が食べられるし、お年寄りの仲間がみんないるし、わがままも聞いてもらえるし、企業からの支援物資ももらえて、たとえば、資生堂の椿シリーズの上等な化粧品とかスニーカーとか、色んなものがもらえるのよ。だから帰りたがらないんだ」と、避難所の実状を教えてくれました。

避難所は、実際それほど遠くない、20キロ地点の検問所から車で30分ほど走ったところにある、田村市船引町(ふねひきまち)の春山という地区にある春山小学校の体育館でした。

自衛隊が仮設のトイレや風呂を設営し、お湯を沸かしてくれて、湯あかをまめに取ってくれたり、きれいに掃除してくれたり、一生懸命やってくれるのだと、避難所から帰ってきたもう一人の年配の女性の方も話してくれました。
その方は、それが申し訳なくて落ち着かなかったと言っていました。

家も壊れてないし、直接の被災はも受けていないけど、食べ物や支援物資がもらえるから、自宅と避難所を何度も行ったり来たりしている人たちがいるのよ、と言っていました。

「そうやって、ただで援助物資を余分にもらって集めている人たちもいるんだよ。こういう人たちは、欲で動いているからどうしようもないね。家も流されて、もっとひどい目にあってる人が、浜の方にたくさんいるんだから、そっちのほうにあければいいのにね」と、やるせない風に言いました。

政府からの補助金が最近出て、地域住民には、避難していてもいなくても、とりあえず一律で75万円と40万円の合計115万円の補助金が、振り込まれたそうです。

この補助金の支払いは、田村市の船引(ふねひき)という駅前にある行政所の管轄で行われたそうです。住民票がなくても、1年以上この地域に住んでいる人たちには、同じように支払われたそうです。

それほど裕福ではない住民にとっては、普段、半年ぐらい働いても115万円も稼げないという人もいるから、とくに家が壊れたりとしなかった都路の住民は、口には出さなくても補助金がもらえるこをとても喜んでいるたち人もいるよ、とも言っていました。

いっぽうで、農家の人たちにしてみれば、放射能のために農作業がいっさい禁止されてしまっていて、その損害を考えると、115万円などでは全然足りないという現実もあるそうです。

個人に対する補償金のほかに、商店や中小企業、農業、旅館など、商売をやっている住民に対する「営業補償」は出るのだろうかと、みな心配しているということでした。

営業補償が支払われるとすれば、それぞれの業界団体を通してだろうと言われていました。だから、農家の場合はJA(農協)を通してということになると、また農協がお金を配る立場になって、さらに権力を握ってしまうことになりかねいという心配もあるようです。

6月3日(金)の夜には、復興活動本部から近くの旅館に、地元の商工会の幹部の方たちと、佐藤栄佐久元福島県知事とが集まって、何かの会合が開かれていました。

おそらく、国からの補償金をどう振り分けるかという話し合いではないか、と副島先生がおっしゃっていました。
一社あたり2億円とかそういう単位だろう、個人には百万、2百万円くらいで適当になだめて、それ以上は上の人間たちが全部持っていってしまうだろうから、払われないだろう、ということでした。

現在も、20キロ圏の外であるにもかかわらず、30キロ圏内までには含まれる地域の田畑では、「土を動かすこと」が禁止されているのだそうです。
そのため、新たに農作物を植えることができない状況のままです。

都路の付近で畑を持っている農家も多いのですが、皆、商売の農業ができず、収入がないまま、とりあえず蓄えを切り崩しながら不安な気持ちで暮らしているということです。

土を掘り起こしてはいけないと言われてるから、他の作物も作らせてもらえないということです。農家にしてみれば、畑の土というのは、何年もかけて耕したり肥やして作り上げてきた農業のための事業資産なのです。

放射能に汚染されているかも知れないから、などと言って、ブルトーザーで土をぜんぶ掘り返して持って行って、どこかよそから新しい土を持って来ればいいというものではないそうです。

同じ土をもう一度作るのにはまた何年もかかるそうで、そのことを考えると、「避難所でのんびりして、ただで暮らせると言って喜んでる場合じゃねぇべ、と言ってるんだけど、聞いてもらえないんだわ」と話していた、都路で農業をやっているおばあちゃんが正しいことがよく分かります。

彼女は、避難所生活がきつくて、「避難所から避難してきたんだわ」と言って笑っていました。

避難所はせまい体育館で、大人数が段ボールで仕切られて暮らしています。トイレや風呂もひ人を気にしながら、寝る時間やら起きる時間、外に散歩に出掛けたりするのさえも、いつも回りに気を遣いながら過ごさなければならなかったそうです。人と違うことをしたり言ったりすると、集中攻撃でいじめられるそうです。

こんな窮屈な避難所生活に耐えられなくなって、とっとと戻ってきたんだぁ、と言っていました。それでも、大震災の当日から2カ月は、避難所にいなければならなかったと言っていました。

だから「あんなところに今でもダラダラいて、三食ただでもらえるから楽しいとか言っているのはおかしいよー。人間がダメになるー」とも言っていました。

そのおばあちゃんに、補助金のことを聞いたら、「もらったよー。でも、お墓を修理するのでほとんど使っちまった」と言っていました。地震のせいで、墓地に建てられていた墓石はみな倒れたり崩れたりしていて、新しいお墓を作るのに全部で百万円近くかかるから、それで補助金は消えてしまったそうです。

もう仮設住宅が、60軒ぐらいは出来たけみたいだけど、そこではガス、電気、水道代は自分で払わねばならないから、避難所から移りたがらない人もいるだろうなー、とも言いました。

今この時期に収穫されたきゅうりなど野菜も、放射能汚染を怖がって誰も食べたがらないから売ることもできず、すべて余ってしまって困っているそうです。

だから、今回のバーベーキューのために、復興活動本部と同じ敷地内にある焼き鳥屋の女主人が、普段の半額ぐらいの値段でまとめて買い取ってくれて、今回、特性の味噌をつけて新鮮なまま食べられるように用意してくれました。私も食べましたが、とても美味しかった。あと、付近の山に採りに行った山菜やよもぎの天ぷらも旨かった。

政府が地元の農作物は「危ない危ない」とばかり言うから、地元の農家の方たちまでが、自分の畑で採れた作物なのぬ食べたがらない。

地元の人たちが、自分自身で安全性を確かめたり、考えることを放棄させられているのです。

地元から離れた東京や日本各地に住んでいながら、くだらないネット情報を信じ込んで真に受けて、「世界のフクシマはチェルノブイリ並みに危険な地域になったのだ」と、本気で思い込んで、「あぶない、あぶない、今でもまだ危ない」と、何か分かった気になって騒いでいる連中は、こうして現地の人たちの実情を知りもしないで、勝手なことを言い続けていることで、どれだけ地元の農家の人々を苦しめ続けているか。

東京で「放射能、こわいこわい、危ない危ない」 ばかり言い続けている人間たちは、とっとと気付かなければならないのです。

【第三部へ続く】

根尾知史拝