[564]福島で見聞きしたこと。【第一部】

根尾 投稿日:2011/06/08 09:36

SNSI研究員の根尾知史です。

私は、5月7日(土)、8(日)、5月28日(土)~30日(月)、6月3日(金)~5日(日)にそれぞれ福島へ行きました。そのときに、私が見聞きした現地の状況を書きます。

その時々にメモした内容をまとめて文字に起こしているだけなので、詳細の情報に多少の誤りや誤差がある可能性もあります。
しかし、少しでも早いうちに、現地で見聞した現場の実際の情報を、記録として残すために、まずは文章にしたいと思います。

それぞれ、三回の訪問なので、第一部~第三部の三回に分けて投稿します。

【第一部】

震災後最初に福島を訪問したのは、5月7日(土)、6日(日)の二日間でした。

福島第一原子力発電所から約60km離れたJR福島駅に着いて最初に話をしたのは、駅の東側にある福島県庁のそばで事業をされている経営者の方でした。

震災から2カ月が過ぎた5月7日の時点でしたが、震災以来ずっと、放射能の汚染状況への不安が収まらないままです、と言っていました。

これからまだ、原発の新たな爆発や放射能漏れがあるのではないかと心配していて、今からでも避難をした方が良いのかどうか、迷っていると言っていました。

その方は、いてもたまらず、ご自身でガイガーカウンターを入手して、4月1日から毎日、室内、屋外、地面と三ヶ所の放射線量を測定して記録をつけ続けていました。

数値は、当初4月1日が、室内0.85マイクロシーベルト(μSV)、屋外が2.123μSV、地面が24.75μSVあったものが、日々、あきらかに減少しているのが分かり、5月6日の時点では、室内で0.239μSV、屋外0.874μSV、地面4.919μSVだと教えてくれました。

およそ1ヶ月の間に、放射線量は3分の1かそれ以下にまで減少していました。

この日の夜は、福島駅から車で40分くらいの場所にある土湯(つちゆ)という小さな温泉街の旅館に泊まりました。温泉旅館にはどこも、避難者の方たちが宿泊していました。

避難者の方々には、「三食・昼寝付き、5000円」という特別料金で宿を提供しているということでした(私はもちろん通常料金でした)。

私が泊まった旅館には、全30室ぐらいあるうち、半分の14室近くに波江町から避難されてきた方たち44名が、宿泊されていました。

旅館の廊下には、波江町の町内連絡掲示板としてホワイトボードが置かれており、泊まっている方たちの名前と部屋番号などの基本情報から、町役場主催する無料健康診断のお知らせや、無料法律相談会の案内などがありました。

さらに、町内会の行事やイベント予定や町役場の事務員募集の連絡、雇用相談の情報、新たに同じ旅館に宿泊しにくる避難者の方の紹介情報、波江町や双葉郡で保護された飼い犬や飼い猫たちの写真を集めて飼い主を探すポスターまで、ホワイトボードいっぱいに、所せましと張り出されていました。

宿屋にしてみると、避難者の方々でどこも満室であり、ちょっとした特需になっていて、「これで避難されている方たちが戻ってしまったら、また商売上がったりになってしまうよね」という、皮肉な本音も聞かれました。

翌5月8日(日)の夕方には、いわき市から国道6号線で、海岸線沿いの津波で被災した地域も車で見に行くことができました。

その惨状は、すさまじいものでした。戦争を知らない私のような世代の人間でも、町が一斉の空襲を受けるとこういう状態になるのだろうと、破壊された家々の残骸のなかを呆然と歩きながら、ただそういう考えが浮かんでいました。

この5月8日(日)の時点ではまだ、3月11日(金)に津波に襲われた当日から2ヶ月も経っていても、津波で廃墟と化した町並みは、そのままの状況でした。さらに一ヶ月後、震災から三ヶ月経ったいまでもそのままです。

保険金がおりるまではそのままだろうと言われました。お金がいつどれだけ流れてくるのかということが、すべての復興作業の工程を決めるのです。

いわき市から四ツ倉をとおって、6号線をさらに北上しました。原発から19キロの地点にあるJヴィレッジにたどり着きました。

Jヴィレッジは、20キロ圏内なので中に入ることはできないだろうと思っていたのですが、入り口が封鎖されているようなこともなく、人もいなかったので、そのまま車で敷地内に入りました。

敷地の道路わきの駐車場には、自衛隊の真っ赤な放水車や深緑の装甲車が5台ぐらいずつ停まっていました。時間も夕方5時ごろだったこともあったからか、人影があまりなく、ときどきすれ違う職員の方らしい車も、誰も私たちのことを気にする様子もなく、注意されて追い出されるだろうと構えていたので、拍子抜けしました。

Jビレッジを別の出口から抜けると、そのすぐ先の交差点には20キロ地点の検問所があり、そこからさらに北へ向かう道路に入っていくことはできないようになっていました。

しかし、20キロ圏内のJビレッジに一般人が自由に立ち入りできたことは、「20キロ」という立ち入り制限の規制が、Jビレッジ(政府側)の都合で恣意的に勝手に決められているかを物語る事実だと言えます。

原発からは50、60キロはなれた、福島駅周辺の地域に住むその経営者の方も、原発近辺の住民がみな東電で働いており、普通の東電職員よりもかなりいい給料(10倍?)という話は聞いていると言っていました。

その上役あたりになると、高級車を乗り回して、地元では「お大名様」みたいに威張っていたようだよ、と言っていました。

町に原発が来たことで、道路はきれいになるし、立派なグラウンドもできて、住民は電気代がただになるとか、補助金を受け取っていたとも聞いていたそうです。

そうやって、地元の人々にはいろいろな恩恵を与えて、いい給料の仕事まで与えて丸め込んで、という構図は「沖縄の米軍基地と沖縄県民の関係と同じだよね」と言っていました。

「だから、今回の原発事故はその見返りかも知れないね。最後には、必ず清算されるということだろうね」とも、言っていました。

同じ5月8日(日)には、福島第一原子力発電所から真西へ20キロにある、都路(みやこじ)の古道(ふるみち)という地区にある、福島復興事務所となった、元コンビニの空き家の建物を訪れました。

さらにその付近の宿屋をいくつか訪れて、次の週の週末、6月3、4、5日には、総勢100名近い人たちが訪れる復興パーティーを行うので、この日に営業しているかどうか、まとめて複数の部屋に宿泊できるかどうかを聞いて回りました。

この際に、原発20キロの検問所地点から1キロくらい外側の地区にある旅館を訪れました。復興活動本部となる建物からは、歩いても5分くらいのところでした。

付近の住民の8割くらいは避難しているそうで、町はがらんとして静まり返っていました。

この旅館は電気も看板もついておらず、営業していない雰囲気でしたが入り口からのぞき込むと、ちょうどその日に避難所から戻ってきたところだという、この宿屋の主人が出てきてくれました。

最初は不振そうな様子で私たちのことを見ていましたが、私たちがなぜ今のこの時期に、この場所にいるのか、その理由を話しました。

すると、とても気のいい親方で、その趣旨を理解してくれ、この宿の営業を再開するかどうかまだ迷っていたけど、それじゃ営業しなきゃなんねーなあ、と言っていました。

中にいれてくれて、色々と話をしてくれました。とにかく、宿屋の主人はいまはまだ、原発の状況がはっきり分からなくて、まだ放射能が漏れているとか、これからさらに大きな爆発があって、もう一度、避難しなきゃならなくなることもありうる、という噂を聞いていて、どうしていいかわからなくて、いまはまだ混乱しているんだ、と言っていました。

震災があってから、昨日まで、ずっと避難所にいたけど、たまたま今日、掃除でもしようかと思って戻ってきたところだということでした。

まかないができるから、避難所でもずっと調理を担当していたそうです。大きな鍋で何十人分の食事を作っていたんだ、と話してくれました。

この宿の主人が一番怒っていたのは、政府があいまいなことしか言わないから、逃げていいんだか、戻っていいんだか、それを決められなくて宙ぶらりんの状況にさせられてあいるということでした。

放射能が本当に危ないのなら、はっきり決断して、避難しろ指示を出してくれればいいのに、それも無いままで、すぐ数百メートル先の検問所では、放射能が危ない地区だから立ち入り禁止だといって住民はみな追い出されている。20キロ圏のぎりぎりのすぐ外側に住んでいて、こうして客商売をやっている人間にしてみれば、まわりの住民もみんな立ち退き命令がなくても、怖がって避難所に逃げたっきり戻ってこないし、もちろんお客さんも来ないし、商売を始めていいんだか、避難してるほうがいいのか、決めかねている、ということで悩んでいました。

政府や東電から補償金をもらうために、営業なんかしないで避難所にいる方がいいのかとか、そのあたりのことも考えなければならない、と言って、混乱して結構弱っている様子でした。

【第二部へ続く】

根尾知史拝