[515]福島県浜通り地方と原発巨大事故

長井大輔 投稿日:2011/05/08 00:03

長井大輔です。今日は5月7日です。

私はこれまで、重掲に福島報告文を3本書いた。
今回は自分の出身地である福島県浜通り地方について、書いてみようと思う。

【地図】原子力発電所立地地点の概要図(福島県のホームページから)
http://www.pref.fukushima.jp/nuclear/pdf_files/aramashi03.pdf

【相馬市と新地町】
私は福島県の相馬市(そうまし)というところで生まれた。相馬市街は中村(なかむら)と呼ばれ、沿岸の漁師町は原釜(はらがま)と呼ばれる。中村は江戸時代、相馬6万石の本拠地であった。相馬家は中村の前は、小高(おだか)に居城(きょじょう)を置いており、米沢(よねざわ)の伊逹政宗(だて・まさむね)と戦っても負けない、強い大名だった。相馬市は本当は、中村市と名のるはずだったが、高知県に同名の市があったため、相馬市と名のることになった。

日本政府の総務省が主導する「平成の大合併」のとき、相馬市は新地町(しんちまち)との合併をめざしたが結局、実現しなかった。新地町は現在は、福島県に組み込まれているが、かつては伊達領(仙台藩、62万石)で、方言的にも宮城県に近い。新地町には東北電力系の新地発電所(相馬共同火力発電株式会社)があり、その恩恵(おんけい)を受けているため、あまり相馬市とは合併したがらない。新地には立派な町役場と図書館が建っている。火発建設の際には、住民に多額の補償金(ほしょうきん)が支払われたと聞いている。

新地町には釣師(つるし)という漁師町があったが2011年3月11日の地震・津波により、潰滅(かいめつ)した。私のおばは釣師の水産業者で働いていたが、普通の揺(ゆ)れではないと思い、一目散(いちもくさん)に鹿狼山(かろうさん)という山にむかって避難した。ただ一旦、自宅に引き返したため、再度逃げる際には津波が到達し始め、津波と競争しながら、避難した。新地町では国道6号線まで津波が押し寄せている。

相馬市の原釜地区も同様に、津波によって潰滅した。私も何度も、現地に足を運んだが、津波による惨状(さんじょう)を目の前にしても、いまひとつ実感が湧(わ)かない。漁師町が瓦礫(がれき)の山と化してしまったことは、目の前の現実なので、信じられないということはない。だが「こんな風になるはずがない」「原釜に大津波が来るわけがない」とは、今でも思う。私の母親は「おれの故郷(ふるさと)がアフリカみたいになってしまった」と嘆(なげ)いている。母親の実家は高台にあるので、津波に流されることはなかったが、それでも床上まで浸水したらしい。

原釜地区には、松川浦(まつかわうら)という観光地がある。日本三景の松島になぞらえて、小松島(しょうまつしま)とも呼ばれる。ただ宣伝が下手なので、全国的な知名度は低かった。その松川浦には、松川浦大橋(まつかわうらおおはし)という橋がある。松川浦大橋は、斎藤邦吉(さいとう・くにきち)のおかげで、できたと言われている。

斎藤邦吉は自民党大平派(宏池会、こうちかい)の衆議院議員で、党幹事長や厚生大臣をつとめた。田中角栄に近かった。浜通りで力のあった政治家といえば、この斎藤邦吉ぐらいだ。田中角栄の女婿(じょぜい、むすめむこ)の田中直紀(たなか・なおき)が浜通りを選挙区としていたこともあったが、落選したために新潟に移って行った。

【南相馬市】
南相馬市は原町市(はらまちし)・鹿島町(かしままち)・小高町(おだかまち)が合併してできた市だ。当初は飯館村(いいだてむら)も合併するはずだったが、決裂した。「南相馬市」という名前は一般公募で決まった。一旦、「ひばり野市」という名前に決まったが不評だったので、再投票により、現在の名前に決まった。当時、原町市の住民だった私も「南相馬市」と書いて、投票した。

だが、「南相馬」という地名を使う地元民は皆無だ。みんな昔から使い慣れた「鹿島」、「原町」、「小高」を使う。南相馬市という名前に決まった理由は、「相馬野馬追(そうま・のまおい)」という伝統行事があるからだろう。神旗争奪戦(しんきそうだつせん)や騎馬武者競争が行われる。開催が危(あや)ぶまれたが、今年もやるらしい。南相馬市は相双地区(そうそうちく、相馬地方と双葉地方)の中心地ということになっているが、盛りを過ぎた、さびれた街だ。私は原町よりも、相馬の方が好きだ。

相双地区で進学校といえば、相馬高校( 相高、そうこう)と原町高校(原高、はらこう)だ。就職校として有名なのは、小高工業高校だ。小高区は1F(福島第一原発)から20km圏内の警戒区域に入っているため、授業が再開できない。相馬市にある相馬東高校で代替授業をする。小高工業の卒業生は技術者となり、優秀な生徒は原発関連企業に行く。

【相双地区といわき市】
浜通りにはJR常磐線(じょうばんせん)、国道6号線が走っている。近々、待ちに待った常磐自動車道も全面開通する予定だった。相馬地方の連中は、買い物や遊びに行くときは、仙台に行く。Wikipediaによれば、相馬地方は仙台大都市圏に組み込まれている。これは私の実感とも一致する。

福島県は会津・中通り・浜通りの3つの地方に分かれる。会津地方は福島県西部にある。東部地方は阿武隈高地(あぶくまこうち)を境にして中通り地方と浜通り地方に分かれる。中通り地方には、福島市や郡山市があり、福島県の中心部だ。私は、会津や中通りには、殆(ほとん)ど行ったことがない。小学校の宿泊訓練(修学旅行のようなもの)で会津若松市(あいづわかまつし)には1回行ったことがある。福島市には、免許の更新をしに行くぐらいだ。

ざっくり言って、新地町・相馬市・南相馬市は宮城県だ。同様にいわき市は茨城県(いばらきけん)だ。上野(うえの)始発のL特急「スーパーひたち」もだいたい、いわき終点だ。だから、いわきは関東地方だといってよい。たしか、TVも関東ローカルを受信できたはずだ。

となると、残るは双葉(ふたば)地方だ。ただ、双葉地方の最北端にある浪江町(なみえまち)は、相馬地方に組み込んでいいと思う。私も原町に住んでいる時は、浪江によく遊びに行っていた。また双葉地方の最南端にある広野町(ひろのまち)も、いわき市に組み込んでいい。ニューズを見ていると、広野の住民の勤務先はいわき市だ。

最後に残るのが双葉町(ふたばまち)・大熊町(おおくままち)・富岡町(とみおかまち)・楢葉町(ならはまち)であり、ここが「原発銀座」「原発海岸」だ。私は相馬地方に長年住んでいたが、双葉地方には殆ど、行ったことがない。用があるときは仙台に行く。東京に行くときも、双葉地方はただ通過するだけだった。何もないからだ。

ただ、私のおじが原発作業員なので、その送り迎えで大熊町には行ったことはある。今回の原発巨大事故に関して、おじに話を聞いてみたが、1Fでも、2F(福島第二原発)でも、勤務したことがあり、若いころは今回、水素爆発を起こした1Fの一号機の中で作業したことがあると言っていた。

【浜通りと原発】
3月11日の地震により、1Fで原発巨大事故が起きた。それにより、福島県は世界的に注目されることになった。私は一生、福島県、特に浜通りは有名になることはないと思っていた。あの地域は一生、あのままで終わっていくと思っていた。私の母親は「相双地区は日本で一番、遅れている」と言っていた。発展から取り残された「陸の孤島(ことう)」だとも言っていた。

今回の原発巨大事故が起きた時、「恐(おそ)れていたものがついに起きた」と私は思った。小学生のころ、NTV(日本テレビ)の『世界まる見え!テレビ特捜部』が、原発事故をシミュレイトしたドイツの番組を紹介しているのを見たことがあった。おそらく、チェルノブイリ原発事故に影響されてつくられた番組だったのだろう。

原発事故が起き、放射性物質が漏(も)れ、住民に避難命令が出る。避難民の車が長蛇(ちょうだ)の列をつくる。軍の検問所(けんもんじょ)で避難民がスクリーニングを受け、除染(じょせん)される。子供だった私にとって、その映像はショックだった。小学校の授業でも、原発事故について調べて発表した。原発作業員のおじがいたこともあって、他の人よりは原発に関心があったと思う。

ただ、福島県では、原発の小規模事故のニューズは日常茶飯事で、「原子炉は自動停止しました、微量の放射能が計測されましたが、環境には影響ありません」といった類(たぐい)のものばかりだった。だれも原発に関して、気にも留(と)めなかったと思う。双葉地方の連中は原発と共存していたのかもしれないが、相馬地方は原発と無縁(むえん)だった。まさか、本当に原発で事故が起きるとは思わなかった。私も人生の中で一番、神経をすり減らし、頭を悩まし、胃を痛めた。

双葉町と大熊町にまたがって1Fが、富岡町と楢葉町にまたがって2Fが建っている。調べてみるとTEPCO(テプコ[ウ]、東京電力)ではないが、東北電力が浪江町と南相馬市小高区にまたがって、浪江・小高原発を建てようとしていたらしい。完成すれば「福島第三原発」になったというわけだ。電力会社の元従業員の話によると、浜通りの北部にある相馬や原町、また南部のいわきは原発建設を断るのだが、その間にある過疎(かそ)地域が原発を受け入れてしまうのだ。

【原子力発電所建設の経緯と現状】
福島県による『原子力発電所建設の経緯と現状(以下、経緯と現状)』という文書を読むと、どうも地元の双葉・大熊にせよ、楢葉・富岡にせよ、原発建設に反対するどころか、むしろ、積極的に誘致している。福島県も原発誘致に協力的だ。『経緯と現状』の1Fの「誘致運動の発端」を引用する。

(引用開始)
[福島]県は、昭和35[1960]年5月10日、(社)日本原子力産業会議に加盟するとともに、県内数地点について、原子力発電所立地調査を行った結果、大熊、双葉地点が適地であることを確認した。同年7月には、通商産業省産業合理化審議会原子力部会の答申があり、原子力発電の民間開発の気運が高まる。

昭和36[1961]年9月には、東京電力(株)が、原子力発電所敷地を双葉郡大熊町、双葉町にまたがる太平洋岸長者原地内の元飛行場跡地を物色しているとの情報に、大熊町、双葉町では積極的協力の態度を示し、県及び東京電力(株)に対し、原子力発電所の設置について陳情するとともに、用地買収及び受入態勢の整備について協力することとした。また、大熊町議会においては昭和36年9月19日、双葉町議会においては同年10 月22 日に、それぞれ東京電力(株)福島原子力発電所誘致の決議を行った。
(引用終了)
①[]は引用者による補足
②読み易さを考えて、引用者が適宜、改行した。

つぎに『経緯と現状』から2Fの「(1)誘致運動の発端」と「(2)建設用地の買収」を引用する。

(引用開始)
(1)誘致運動の発端
 大熊町、双葉町の原子力発電所誘致運動が発端となり、富岡町、楢葉町においてもその気運が高まり、昭和42[1967]年11月には、南双方部総合開発期成会が企業誘致を知事に陳情し、43[1968]年1月、県は、東京電力(株)福島第二原子力発電所の誘致を発表した。なお、富岡町、楢葉町は協力の態度を示し、富岡町議会でも原子力発電所誘致促進の決議を行っている。

(2)建設用地の買収
 昭和43年6月、東京電力(株)は県に対し、富岡町、楢葉町の太平洋岸に原子力発電の第二地点の用地斡旋[あっせん]を依頼した。県はこれを了承し、県開発公社が同業務を引受けることとし、44[1969]年7月には、県開発公社と東京電力(株)との間に「東京電力(株)福島第二原子力発電所の用地取得等の契約」を締結したが、富岡町毛萱[けがや]地区では、原子力発電所設置絶対反対を決議したことなどもあり、富岡町議会では、原子力問題調査特別委員会を設置した。

昭和45[1970]年3月、楢葉町議会では、東京電力(株)福島第二原子力発電所建設用地の町有地処分を議決し、昭和46[1971]年3月、東京電力(株)福島第二原子力発電所地点の土地買収交渉がまとまり、昭和48[1973]年3月、県開発公社は、東京電力(株)に福島第二原子力発電所地点にかかる用地等(発電所用地132万m²、進入路用地3.7万m²)の引渡しを完了した。
(引用終了)
①[]は引用者による補足
②読み易さを考えて、引用者が適宜、改行した。

「原子力発電所建設の経緯と現状」は福島県が発行する「平成21年度版原子力行政のあらまし」の一部である。全文は福島県のホームページで読むことができる。

【資料】福島県原子力安全対策課
http://www.pref.fukushima.jp/nuclear/aramashi/index.html

【原発巨大事故について】
浜通りは田舎(いなか)だから左翼がいない。だから左翼的な原発反対運動が起こることもない。だいたい左翼は田舎では嫌われる。「何が何でも自民党」という土地柄だった。原発立地地域の双葉地方の連中は、各地に散らばって避難させられているから、いまどういう風に考えているのか、分からない。ただ、私の原町にいる親戚(しんせき)の話を聞いていると、TEPCOと福島県知事に対して、かなり怒っているようだ。また東京都民に対しても、「何であいづらに電気を送るために、おれらが犠牲にならなければならないのか」と憤慨(ふんがい)している。

現在は、これまで意識したことがない原発巨大事故が起き、原発というもの初めて意識し、その被害が自分たちに影響を及ぼし、怒りが湧(わ)き起こっているという段階だ。私は地震直後、仙台の避難所にいたが、その時から原発事故に最大限の注意を払っていた。3月の15日には仙台を離れ、16日に静岡まで避難した。原町にいる親戚が避難を考え始めたのは16日だ。それほど、原発に対する危機意識は、薄(うす)かったということだ。

TEPCOなり日本政府から少額なりとも見舞金をもらい、徐々に日常の生活にもどっていけば、その怒りも収まっていってしまうかもしれない。しかし、私の母親はいくら何でも、今回はそうならないだろうと言っている。住民たちの政治意識は低い。教育水準も低い。知識もない。たとえば、漁師(船方、ふながだ)なら漁業のことしか知らない。百姓なら農業のことしか知らない。何かに関心を持つこともない。よそ者は村八分(むらはちぶ)にする。趣味もない。どこかに行くといっても仙台くらいで、東京はもう外国だ。

ただし、今回ばかりは「原発事故、しょーねな(仕様がないね)」というわけにはいかないだろう。原発巨大事故によって初めて、TEPCOや日本政府、福島県庁というものを意識し始めた。政治的なものにめざめた。南相馬市で開かれた福島県による住民説明会は、住民のTEPCOや福島県に対する怒りで、大荒れになったと聞いている。原発建設の経緯(けいい)や原子力産業に対する正確な知識を身につければ、自分たちが住んでいた浜通り地方が、本当はどういう地域だったのか、初めて分かるようになるだろう。