[477]なぜ、副島先生は、「もう、大丈夫です。安心してください。と、私は、言い続けるしかない」のか。
こんにちは。
石井 利明です。
私は副島先生と一緒に、二回、福島の現地を訪れました。
大震災の発生から、40日です。
この重たい掲示板でも、佐藤さんが“454”と“457”で、副島先生の報告文を解説しています。
そこで、私も出来るだけ簡単に整理してみようと思います。
まずは、佐藤さんと同じように、時系列でまとめます。
始まりは、12日の15時36分に起きた、福島第一原発第1号機が爆発です。
この事実は、17時45分に枝野官房長官が緊急会見まで伏せられていました。
つまり、2時間ほど隠蔽(いんぺい)されていました。
会見の内容は。「原子炉そのものとは確認されていないが、なんらかの爆発的な事象が確認された。総理や専門家をまじえて、情報の把握と分析など対応にあたっているところである。放射能について測定はおこなわれているところであるが、18時過ぎに新しい数字がでてきます。落ち着いて行動を。」
です。
副島先生の第1信は、この会見から1時間以内、18時33分でした。
この掲示板の[207]の “福島第一原発で メルトダウン(炉心溶解)が起きました。 自分の判断で逃げてください。”です。
13日の5時には、官邸ホームページの地震関連ページに「東北地方太平洋沖地震への対応」という資料が追加されます。
この内容は、ベント操作により1名が大量被爆(線量106msv)し、原発に近くの双葉病院にいた3名も被爆、というものでした。
先生は、同じ、13日の8時21分に[210]をこの掲示板に投稿しました。
[207]は、先生自身の安否情報も兼ねていましたので、この[210]が正式な原発に対する報告文の最初です。
タイトルは、“[210]福島第一原発の事故(報告1)この大凶事は、日本国の本当の危機です。日本国民は、もう疲れ果てて「どうにでもなれ」と諦(あきら)めつつある。”でした。
この時の先生は原発事故をタイトルにあるように、日本国の危機、全国民の危機として、として判断されていました。
だから、将来の日本国を担う若者たちに、「逃げろ! 生き延びろ!」と訴えたのです。
(報告1の[210]から引用開始)
私たち、もう50台から上の人間たちは、いい。十分に生きた。しかし、判断力も人生の知恵もない、若い人たちを守らなければいけない。若者たちだけが、私たちの財産だ。
([210]から引用終了)
しかし、原発の状況は悪化の一途をたどります。
14日の11時1分には、 福島第一原発第3号機で水素爆発が発生。爆発音は2回にわたり、水素爆発特有の白い煙とは別に灰褐色の煙が高くあがったとの情報があり。第3号機の建物外壁がなくなり、骨組のみとなっている様子が報道され、半径20キロ圏内屋内退避指示が発令されました。
私も、このプルトニウム燃料の3号機の爆発を見て、「もう、ダメかもしれないなぁ」と思い、逃げることをあきらめました。
15日の8時30分頃には、福島1-2 発電所所長判断で一部従業員が退避を始めるという報道が流れ。子どものいる友人に電話を何件も掛けました。何人かは、奥さんと子どもを今いるところより安全な場所に移動させてくれたようでした。
そして、逃げるだけでは、もう、どうしようもない状況だと、私は理解しました。
15日の9時40分に投稿されていた、副島先生の報告文5
“若い人たちは、西に逃げてください。 老人と、公務員は、決死隊員になる覚悟を決めてください。”
を読んで、副島先生に電話を掛けました。
「決死隊にはなれませんが、手伝えることが言ってください」というようなことを話しました。
先生は、「これから、東京に行って政治家を説得する」と言っていました。
16日の17時過ぎに投稿された。
[254]“まだ大惨事が迫っています。大切なのは、上に立つ人間たちが、責任を取る、という思想です。”に先生が決意を述べられている通りです。
18日の午前7時は、[273]“ECCS(緊急の炉心冷却装置)の電源回復、冷却ポンプが作動することが一番、重要だろう。”が投稿されました。
([273]から引用開始)
私は、都心で国会議員たちを説得して、現地視察をすることを強く勧めています。国会議員たちでないと、福島県境の東北縦貫道の警察の制止線を越えられない。(中略)
政治家たちが動かない、ということになったら、私は、自分と弟子だけで、現地に向かって、出来る限り福島第一の現場の近くまで行きます。
([273]から引用終了)
結局、責任ある政治家で現地に赴(おもむ)くという人は現れませんでした。
「手伝います」と言ったので、先生と一緒に、3月19・20日に福島へ行くことになりました。
その結果は、19日の15時27分に[292]として、速報で中田さんにより“福島県内に調査に入った副島先生からの電話の内容”として、この掲示板にアップされ。
翌朝の6時39分には、先生が[295]として、
“強運により、原発事故の凶悪事(強度の放射能汚染)から日本国民全体が、逃れることができました。”
と投稿されたとおりです。
この現地調査を境に、先生の原発事故に関する視点は変わります。
実際に現場に行きデータを取ることで、日本の危機という国家規模の問題から、福島の地域規模の問題へと変化したのです。
福島の人たちを助けるためには何をすべきか?
先生の“福島に住む!”発言は、この中から生まれたのだ、と思います。
3月22日の、午前6時21分には、[309]
“私たちは、今こそ福島県産の野菜、果物、コメ、魚を進んで食べる運動を始めなければならない。それが復興への支援だ。”
が投稿されています。
この転換が分からない人たちは、“危険だ!危険だ!”を連発し、挙句、「金をもらったんだろう」という輩(やから)も現れました。
私が先生と一緒にいて印象に残ったのは、「俺はなぁ。現地の人の頭とも同化できるから、現地の人の気持ちが分かるんだよ」でした。
確かに、現地行けば、そこに住んでいる人が、当たり前に居るのです。
そして、一番怖いのは、私たちではなく現地の人たちなのです。
その人たちは、自分の家を見に帰りたい、と思っても怖くて行けない。
私にも、その気持ちは少しは分かる。
だから、二回目に福島に現地調査に行った報告文10として、ぼやき「1207」で書かれた、
“原発の避難者の皆さん、子供もつれて自分の家に帰りましょう。もう、大丈夫です。安心してください。と、私は、言い続けるしかない”、
が、どれくらい、現地の人たちを勇気づけたかが分かる。
昔、つのだじろう、という漫画家の書いたマンガに『恐怖新聞』というのがあった。
主人公の家には、毎日、12時になると明日の出来事が書いてある新聞が届けられる。
いくら要らないといっても届けられ、それを読むと100日寿命が縮む。
私は、“危ない! 危ない!”といい続ける人は、恐怖心の配達人に似ていると思った。
現実を少しでも良くするという方策も無く、ハズレても、「ハズレて良かったじゃない」だ。
何の責任も取らないばかりか、「あなたのためを思って言っていたんです」とも言いかねない。
その間に、それを読んだ人たちの寿命が縮んだことなど、考えもしない。
石井 利明拝